宵の朔に-主さまの気まぐれ-
「姫様のせいじゃない…誰も、悪くない…」


必死にそう自身に言い聞かせながら針に糸を通そうと必死になっている者が居た。

だが手は震えて、眼球もぶるぶる震えて、身体も震えて、何も思い通りにはいかなくなっていた。


「私…主さまのこと…大好きだったのね…」


かつて、‟真名を呼んでほしい”と言われたことがある。

かつて、抱きしめられたことがある。

だがそれ以上の進展はなく、淡い期待を抱いていた自分もあの時確かに居た。

そして未だにあの穏やかで優しく、だがとても強くて美しい男を諦めきれていない自分も存在していた。


「もぉ…やだ…」


「お嬢さん、お邪魔してもよろしいでしょうか」


「!!鬼灯様…」


鼻も目も真っ赤になっていた柚葉は咄嗟に手拭いで顔を覆って背中を向けて返事をした。


「どうぞ…」


「失礼します」


――泣いていたのはばれているはずだが、輝夜は問い質すことなく部屋に入って柚葉の隣に座り、熱い茶を差し出した。


そして相変わらず何も言わず、隣でのほほんと茶を飲んでいる輝夜にいらっとしてしまった柚葉は、顔を覆ったまま冷たい声色を発した。


「あの…何も用がなければひとりになりたいんですけど…」


「今のあなたをひとりにはできません。いいですかお嬢さん、私は悲しみに暮れる者の声なき声を聞く力があります。そしてあなたは今全身で泣き叫んでいる。身近にそんな方が居るのだから、放っておけるはずがないでしょう」


「でも私は!私は…姫様と自分を比べてしまうんです…。何もかも違うのに…姫様はおきれいだけど私は…」


「ここで私が‟あなたも可愛いですよ”と言っても無駄なことは分かっています。だから」


ふわり。

包み込まれるように背中から抱きしめられて、嗚咽が止まった。


こうして男に抱きしめられたのは――朔の時以来。


「あなたには今温もりが必要です。私でよろしければ差し上げましょう」


耳元で囁かれる低くも温かい声。

冷え切っていた心がじわりと温か味を増してゆく。


姫様との違いを探してはいけない。

あの方はもう、姫様を選んで褥を共にしたのだから。


「鬼灯様…私は…醜いんです」


「その一面もまたあなたなんです。受け入れて、ひとつになりなさい。さあ目を閉じて」


言われた通り目を閉じた。

先程とは違う温かい涙が頬を伝って、止まらなかった。
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