宵の朔に-主さまの気まぐれ-
「めっちゃ見られてるんだけど。めっちゃなんか言いたそうなんだけど。なんだよ朧」


今日は文の整理も庭の掃除も何もしなくていいから家族と過ごせと朔に言われて手持無沙汰になって、いったん屋敷の上に造った自宅に戻っていた雪男は、腕に抱き着いて離れない朧に苦笑して見せた。


「準備ってなんですか?死ぬつもりなの?」


「死ぬつもりっていうか、いつ死んでもおかしくはないっていう心構えはある。主さまは悪事を働く妖たちの天敵なんだ。常に命を狙われてるんだから側近の俺だって狙われる」


――幼さはすっかり抜けて、十六夜を女にしたかのような壮絶な美女に成長した朧との間には沢山の子ができた。

紆余曲折…そんな言葉では言い表せないほどに様々な困難があり、その度に共に乗り越えてこの手を離すことはなかった朧にひとつだけずっと隠し事をしていた。


自分が万が一死んだときのための、準備だ。


「‟渡り”ってそんなに強いの?この前見た時はそんなでもなかったでしょう?」


「あいつらはさ、姑息なんだ。人質取ったり惑わせたり、身体より心を壊そうとする。…息吹も以前それで大変な目に遭った。だから俺は油断しない。…ま、今夏だろ?だから本領を発揮できない分根回ししてるってだけ…」


雪男は夏に弱く、いつもの半分程度しか実力を発揮できない。

そしてかつて一度命を落としかけたことがきっかけで、死について考えることも多くなっていた。


「お師匠様…無理しないで。あなたはもう父親なんですよ。私だけじゃなくて、輪ちゃんたちにとってもあなたは大切なんです。…私はあなたが一番大事」


触れられてもこの身が溶けない唯一の女。

長い髪を指で梳いてやわらかく抱きしめると、しがみつくようにそれに応えて固い表情を崩さない朧にまた笑った雪男は、昔よくしていたように朧を膝に乗せて丘の下に見える屋敷の屋根を縁側からふたりで見下ろしていた。


「俺も女の中じゃお前が一番大事。男だと主さまだな。朧、お前俺に何かあっても‟渡り”の前に立ちはだかるなよ。約束してくれ」


「…考えておきます。今日暑いですね…私お風呂入れてきます。入りますよね?一緒に。ね?氷雨…」


分かりやすく誘われて吹き出した雪男は、朧のふっくらした唇を指でつまんで頷いた。


「手加減なしに愛してやる」
< 305 / 551 >

この作品をシェア

pagetop