宵の朔に-主さまの気まぐれ-
銀(しろがね)は九尾の妖狐であり、かつてにこの国の覇を奪わんと十六夜に戦いを挑み、大きな惨事を引き起こしたことがある。

そんな銀は今や目をぎらつかせて権力を欲する猛者ではなく、狐から猫になったかの如く落ち着きを取り戻した。

それもこれも、ひとりの女の赤子を拾ったことがきっかけだった。


「自由にしろと言われても。どうすればいいんだ」


「ぎんちゃん。ここに座って」


家はなく、朔の住む屋敷の空き部屋を使わせてもらっている。

名の読みは『しろがね』なのだが、この隣に座っている白狐――若葉と朔だけは昔から『ぎん』と呼んでくるため、もう訂正するのも飽きて好きに呼ばせていた。


言われた通り若葉の隣に座ったものの、金と銀の入り混じる複雑な色の目を細めた銀は、頭のてっぺんにあるふかふかの耳に止まる蝶を耳を動かして追い払おうと躍起になりながら若葉を横目で睨んだ。


「何をすればいいんだ。朔め、家族団欒をしろなど訳の分からんことを」


返事はない。

若葉は元々寡黙で表情もあまり動くことがなく、いつの時も平静なため銀の苛立ちは徐々に治まっていった。


「若葉、笑ってみろ」


「どうして?」


「笑った顔が見たいんだ。笑ってみろ」


「どうやって笑うの?」


「こうだ」


若葉の頬をむにっと引っ張って無理矢理笑わせようとした銀だったが――笑ったのは銀の方だった。


「ははっ、おかしな顔になったぞ」


「ひどい。あっちに行って」


怒られても全然めげない銀は、若葉が人から現在の姿に至るまでの長い時をひとりで過ごした寂寥感に溢れて叫ぶこともできなかった時代を振り返って、ふっと笑って俯いた。


「ぎんちゃん?」


「お前が戻ってくるまで長かった。本当に長かった。俺は…笑えなかった。お前の時折見せてくれた笑顔も忘れそうになっていた。だから…笑ってくれ」


女遊びが激しく、若葉を独りにさせて寂しい思いをさせていたこと。

今なら、心の底からそんな駄目だった自分を謝れる。


「ほら、早く笑え」


「ぎんちゃん、変なの」


はにかんだ若葉を人目を憚ることなく抱き寄せると、若葉の耳に蝶が止まってふたりで笑った。


「今まですまなかったな」


「何が?ぎんちゃんどうしたの?どこか痛い?」


背中を摩ってくれた若葉の瞼に軽く口付けをして、首を振った。


「なんでもない。ほら、笑え」


笑わせることに躍起になり、そんな銀がおかしくて、若葉は笑った。
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