いつか羽化する、その日まで
今さっきだって普通に呼んでいるのに何を今更。ここにきてしらばっくれるつもりなのかと黒い感情が生まれそうになったところで、隣から「あ」と声が漏れ出た。素早く振り向くと、合点のいった顔をした村山さんはこう告げた。
「あのさ。〝アサミ〟は名字だよ」
「……ええっ!?」
驚き過ぎて大きな声が出てしまい、慌てて自分の口を手で押さえた。
知らなかった。私、さっきからずっと勘違いしていてーー。
そしてこの勘違いはマズい。本意に気付かれたらとてつもなく恥ずかしい。出来ることなら、このまま新幹線を降りてどこかへ走って逃げてしまいたい!
そのまま座席に沈み込むように俯いた私へ、ゆっくり近寄ってくる気配を感じる。もちろんこのまま見逃されるはずもなく、さっきのお返しとばかりに静かに反撃が開始された。
「渚ちゃん、妬いてくれてたんだ?」
「ち、違います……」
村山さんは培ってきた営業力で、相手の反応をみて一番適切な行動を取ることが出来る。それは、まだ羽化したばかりの新米にも容赦はない。
「そんな赤い顔して否定されてもねえ。……下の名前呼ぶってだけでこの反応だなんて、渚ちゃんて意外と独占欲つよ」
「ちょっと黙っててくれますか!」
「……ハイハイ」
私の限界ギリギリのラインも何となく分かるのか、村山さんはやっと体を離して自分の座席に座り直してくれた。そうして、鞄から本を取り出すとそのまま読み始める。トンネルに入ると途端に圏外になってしまうこの道中では、ごく一般的な光景だ。私も、彼に倣って持参した文庫本のページを捲ることにした。
そうして、辺りは静かになった。
ーーと思った数分後。
「ところで、僕のことはいつ名前で呼んでくれるの?」