いつか羽化する、その日まで

真剣に本を読んでいたら、登場人物の台詞とは到底思えない言葉で現実に呼び戻される。
いつからそうしていたのか、村山さんは私のことを眺めていたようだった。頬杖で少し潰れた目元に色気を感じていまい、私は開いたページで慌てて口元を隠した。


「いつって、そんな……すぐには」


そんな簡単には呼び方は変えられない。村山さんからは〝渚ちゃん〟と呼ばれ始めて嬉しいし胸がいっぱいだが、それとこれとは別だ。


「まさか知らない訳じゃないでしょ。穴が空くほど名刺を見てたんだから」

「そりゃあ知ってます、けど」

「じゃあ、呼んでくれる?」

「……」


優しい目を向けながらもなかなか引き下がらない村山さんは、もしかしたら本気で呼んで欲しいと思っているのかもしれない。

視線に耐えきれず、村山さんとは逆方向を向いた。都会から離れた窓の外は既に暗く、時折現れる街の灯りが点々と浮かび上がるだけだ。
だから、そこにある大きな窓が鏡のようになってしまい、通路側に座る村山さんの顔がばっちり映る。楽しそうに手を振って笑っている彼と窓ガラス越しに目が合った。


ーーこれは、絶対に私の反応を楽しんでいる!


村山さんは培ってきた営業力で、相手の反応をみて一番適切な行動を取ることが出来る。それは、まだ羽化したばかりの新米にも容赦はない。ーーだから私は、ありったけの力で反撃することに決めた。意外と不意打ちに弱い彼の反応を目に焼き付けておくために。


「もう、カーテン閉めますよ! しゅ、柊一(しゅういち)さん!」


全開だったカーテンを引っ張り窓ガラスを封印した私の背後からは、息を飲む音がした。


ーー呼んでしまった。


村山さんを見ないようにしてまた背もたれに体を預ける。急いで読みかけの本を手に取るも、目が滑って全く内容が入ってこない。

心の中では何度も呼んだ、胸ポケットに入ったままの名刺に書いてある彼の名前。


「……はは、本当参った」


隣からは、苦笑にも似た小さな声。


「浅見ちゃんは彼氏の名前を呼ぶまでに一年かかった、って話をしようと思ってたのに……」

「そっ、それ……早く言ってください……!」

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