アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 頭から、全身から、指先から。
 血の気がひいていく。
 ジャスパーに触れている部分以外の感覚が、わからなくなる。

 たすけて。
 助けて…!

 ――誰に、願うの?
 祈るの…?
 だって、あたしが。


「ジャスパー!」

 バタバタと、駆け寄ってくるいくつもの足音。
 レイズやイリヤ、それにレピドやルチル。
 まるで悲鳴のように叫んでいる。
 すぐ近くで聞こえるそれが、どこか遠い。

 視界の片隅からいくつもの手が伸びてきて、おそらくジャスパーの手当てをしようとその体を奪おうとする。
 あたしは咄嗟にその体に覆いかぶさるように抱き締めた。
 奪われまいと、必死に。血だらけの体をかき抱く。

 やめて、だれも、さわらないで。
 そんなバカなことを叫びながら。

 ぐ、と強く肩を背後からひかれる。
 クオンだ。あたしの腕をジャスパーから引き離そうとしている。

 ――クオン。そうだ、クオンなら。

「…クオン…! あたし、前、リシュカさんに…! 傷を治してもらったの…! クオン、治癒魔法なら…治せるでしょう…?! お願いジャスパーを助けて…!」

 クオンはこの国でも群を抜く優秀な魔導師だ。
 あたしには無理でも、クオンなら――

「…できません」

 クオンがあたしの顔を見つめながら、苦しそうに。

「この国で治癒魔法を使える魔導師は、数えるほどしかいません。私が知っている治癒魔法を使える魔導師は、リシュカ殿のみ。…私は、使えません」

 そう吐き出すクオンの言葉が、まるで残酷な最終通告のように、耳を滑る。
 あたしは必死に希望をかき集めるように、縋るように。
 リュウやイリヤ、それから今は遠く離れた場所に居るトリティアに視線を向ける。

 誰も応えてくれない。
 こんなにも助けを求めているのに。
 こんなにも強く、願っているのに。


『――愚かな人間よ』

 誰も声を上げない静まりかえった海に、響く言葉。
 ぴくりと、あたしの全神経がそちらに向くのが分かった。
 ぐ、と。乾き始めた血の跡が、割れる。

『弱い者は戦場にくるべきではない。己の身も護れずに庇おう等と、とんだ思いあがり。滑稽でしかない』

 アトラスだ。僅かに発光する、神の姿。
 視線を向けると、船から僅かに距離をとった海の上。その姿を現していた。
 アールの体は床に倒れたまま。
 でも器が残っているということは、助かったのだろうか。
 リュウがすぐ傍にいた。

 ざわりと周りの気配が怖気づく。
 魔力を持つ者だけでなく、この船の全員がその姿を見ていることが分かった。
 この特別な場所故か、戦いの痕、アトラスの魔力が満ちているせいか。
 どうしてまだここに居るのか。
 そして今なにを、言ったのか。

 ゆらりと景色が揺らいだ。

『弱い者などこの海に要らぬ。この愚かしい世界など。今すぐにでも亡ぼしてしまえば良いものを、何故父上は――。その弱さと愚かさを正さぬ限り、人はまた繰り返す。マオ、おまえはそれでもそちら側に居るというのか。今のおまえでは誰も護れぬぞ。その証拠に――』

 アトラスの毛が、逆立つ。異様な魔力を放ちながら。
 びりびりと空気を伝い、それは目に見える恐怖となって皆に伝わる。

『そやつらも全員、同じ目に遭わせてやろうか』

 ぷつりと何かが途切れる音がした。
 アトラスの声か、海鳥の声か。すべての音が遠ざかる。

『――やめた方が良い、マオ。アトラスの挑発だ。きみをこちら側に引き入れたいだけだ』

 トリティアの警告はあまりにも遠くて、あたしの胸にまでは届かない。
 ただ、その時胸を占めていたのは。

 許さないと。
 それだけだった。


 船を揺らしていた波が、ぴたりと止まる。
 ゆっくりと冷たい音をたてながら、凍りつくように動きを奪われ固まっていく。
 今ここにある、すべての液体。あたしの肌を濡らしていたジャスパーの血すらも。ぜんぶ全部、今はあたしの支配下だ。

「――海が…!」

 誰の落とした言葉か。それすらももう分からなかった。
 船の周りの海はすべて固まり、硬い海の大地となる。淡い光を放ちながら。

 海が凪ぐ。その身が捕らわれる。
 いま、この海を支配しているのは、間違いなくあたし。
 そしてあたしが黙らせたいのは、アトラスだ。
 
 あたしの魔力はあたしの意図を正しく継いで、まっすぐ伸びた海の塊がいくつもの牙を剥いた。
 その矛先に居るのはアトラス。それでも表情を崩さない。
 だけどもう笑ってはいなかった。

 あたしはどんな顔をしているだろう。
 ただ怒りと憎しみとで支配された頭はもう何も考えられなくて。
 それはただあたしの内から溢れていくばかりで、自分ではもう止められない。
 許さないとそれだけの心が、熱をもたない刃となってアトラスへ向かう。
 ぴき、と。耳元で何かが割れる音がした。


「――やめてマオ! 体が…!」

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