アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
イベルク港の宿屋で部屋をとり、備え付けのお風呂でお湯を浴びる。
体のあちこちに血の痕。それをお湯で溶かしながら、タオルで擦り落とす。
固まって古くなったとはいえ、元は液体。
今のあたしなら、全身の血を落とすことは容易くできることを分かっていた。
だけどそれはしない。したくない。
自分の手で、落としたい。
神の力など使わなくてもできるのだから。
時間をかけて血と汚れを洗い落とし、それから張ってあった湯に体を沈める。
湯気が視界を覆って、目の前がぼやける。
そのままとぷんと、頭のてっぺんまでお湯の中に体を沈めた。
いくつもの泡の粒が鼻先で踊る。
ああ、本当に居なくなっちゃったんだ、と。
ぽつりと浮かんだ。
今、あたしの中にトリティアは居ない。
なぜかそれがはっきりと分かった。
あの海に帰ったのだろう。
ずっと帰りたかった、故郷の海に。
最初、トリティアが自分の中に居ると知ったとき。
こわかった。得体の知れないその存在が。もたらされる力が。選ばされる覚悟が。
でも、こうしてひとりになって漸く気付く。
守られていたんだと。
ひとりになってしまったんだと。
せめてもう少し傍に――居てほしかった。
「――マオ!!」
感傷に浸っていると、突然許可もなく浴室のドアが開けられる。
驚いて顔だけ湯船から出すと、なぜか裸にタオルを巻いたイリヤの怒った顔。思わず目を瞬かせる。
「い、イリヤ…?」
「やっぱり! お医者さまに湯船は浸かっちゃダメだって言われたでしょう! 傷口にばい菌がはいるって!」
「あ、そ、そうだった…」
すっかり忘れていた。
ちらり、と湯船に沈んでいる自分の脇腹へと視線を向ける。
薄紫の皮膚に太い糸が縫われた傷口。
薬で今は痛みを感じないせいで、すっかり忘れていた。
この傷を縫ったのは僅か数時間前の出来事なのだ。
魔力の暴走で裂けた皮膚の傷は掠り傷程度だった。
時間が経った今は殆ど痛まないし、じきに薄れる。
だけどこれは違う。
アトラスの魔力に灼かれた痕。
その威力の殆どはジャスパーの腹を抉り、そして避けきれなかった一部があたしの脇腹を僅かに抉った。
すぐに適切な処置をせず放置していたせいで、イベルクの港の町医者にこっぴどく怒られた。
皮膚の一部が壊死しかけている。
それでも魔法で血ごと固めていたおかげか、傷口の周辺の皮膚だけを焼き切り縫合することで、手術は内臓までには及ばずに済んだ。
クオンが麻酔代わりの神経麻痺の魔法をかけてくれていたおかげでそこまで痛かった記憶はない。
ただ意識があるまま自分の肌を焼かれ、そこに針と糸が通る感覚は、鮮明だった。
鎮痛剤が切れたら熱が出るとは言われている。
おそらくこれは、痕が残ると言われた。一生消えないと。
同情の目を向けられて、付き添ってくれていたイリヤやクオンは顔を歪ませていたけれど、あたしはなんとも思わなかった。
本来は麻酔で意識ごと奪ってから施す処置。だけどそれは拒否した。
無理を言ってクオンに魔法で誤魔化しながら処置をしてもらった。
時間がなかったからだ。
もうすぐ船は弔いの海と呼ばれる場所へ出航する。
ジャスパーの遺体の水葬の為だ。
最後の、見送り。
乗り遅れるわけにも、乗り過ごすわけにもいかなかった。
その魔法の作用と薬の影響でか、体の感覚が未だ掴めないのが現状だ。
そんなあたしをイリヤが心配してきてくれたんだろう。
裸の理由は分からないけど。
「もー! 待っててって、言ったのにボク! ほら、体洗ったんならさっさと出る! 傷に障っちゃう! ボクがやってあげるって言ったのに!」
「そ、そうだったっけ…?」
「も~~!!」
頬を膨らませながらイリヤが大きなバスタオルで頭からぐるぐるとあたしを簀巻(すま)きにする。
それからその見た目から想像もできないような力でひょいとあたしを担いで浴室を出、ベッドに放った。一応ケガ人なんだけど。
「傷口、見せて」
イリヤに言われてごそごそと、タオルの隙間から這い出て自分のお腹を晒す。
ギシリとあたしの隣り、ベッドに腰掛けたイリヤがその琥珀色の瞳を傷口に向けた。哀しそうな顔で。
そっと。その冷たく細い指先が、歪な傷口をなぞる。
感覚は殆ど無いので痛くはない。
視覚的にくすぐったい気がしただけだった。
この傷が。この痕が残ると言われた時。
心のどこかで安堵する自分が居た。
これは、この傷はきっとずっと。
抱えて生きていかなければいけないのだ。