アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
「……シア…?」
今、なにを言われたのか。
あたしの頭はまるで理解できなかった。
シアが何をしようとしているのか、これから何が起こるのかも。
ただ。
シアはその時初めて、あたしの顔を見て、一雫だけの涙を零した。
そんな自分の顔を隠すように、もう一度あたしをその腕の中に閉じ込める。
だけどそれは先ほどまでと違い優しさの為だけではなく。
文字通り、逃がさない為に。
「――リズ、頼む」
シアのその一言に応えるように、暗闇からリズさんが姿を現した。
突然現れたその気配には、深い混沌が混じっている。
近くで感じて鳥肌がたつほどの。
あたしはリズさんの姿をきちんと見るのはこれが初めてだ。
以前言葉を交わしたことはあるけれど、その姿は薄いカーテンの向こうに阻まれていた。
あの、地下の部屋で会ったきり。
リズさんはあそこから出られないと言っていた。
どうして、今ここに――
『…開けてやるのは構わない。だがアタシはその娘に触れられないよ』
「…なんだと」
『アタシ達に肉体はない。今まではその娘の中に居たトリティアが橋渡しをしていたようだが、今はもう居ないようだ』
「…!」
リズさんと話していたシアが、腕に力を込めるのが分かった。
どうやら不測の事態らしい。
その表情がすぐ近くで曇る。
「…陛下…! マオを…、どうするつもりですか…?!」
この緊迫した空気に割って入ってきたのは、意外にもイリヤだった。
シアは極めて冷静に、視線だけでイリヤに応える。
透き通るように澄んだ声。
その声に押されるように、だんだんと現状が見えてきた。
お別れだと言ったシア。
こんなタイミングで、あたしの元へ来た。
危険を顧みず、おそらく国の一番大事な時期に。
それは、その理由は――
「…マオをもとの世界に帰す。そしてもう二度とこの世界へは来させない。…異論はあるか」
シアが、その声音を落としながらイリヤをまっすぐ見据える。
その視線に、瞳に、イリヤが僅かに怖気づくのが分かった。
だけどすぐに顔を上げて、シアと真っ向から対峙する。
あたしは何故か他人事のようにその様子を心のどこか遠くで眺めながら、シアの言葉を頭の中で反芻していた。
もとの世界に帰す?
あたしを…?
どうして、だってシアにはできないって言っていた。
シアの意思では、それは――
それに異世界の門を開けるのは、トリティアにしかできないことだと、そう思っていた。
だけどそうだ、確か言っていた。
今までは、そうだったって。
だけど今は違う。
あの頃とは状況が変わった。
おそらくもうひとり、扉を開けれる存在。
それがきっと、リズさんなんだ。
何かが大きく変わってしまった。この国で。
だからきっと、ここに居るんだ。
待って、シア。
あたしはそんなこと望んでない。
いやだ、イリヤ。
止めて。
だってまだ、あたしは――
「いいえ。陛下がマオを戦線に連れていくつもりなら…止める気でした。命に、代えても。でも、違った。マオをもとの世界に帰してくださるというのなら――」
いやだ。まって。
イリヤ。どうして――
「お願いします。マオをもとの世界に、帰してあげてください。魔法も戦争なんかも要らない、生まれ育った大切な地へ。その為ならボクらは…その望みを叶えて頂けるなら。陛下の為にこの命を差し出す覚悟です」
そう言って深く頭を下げたイリヤはもう。
あたしのことなど見ていなかった。
どうして、と。
その言葉すら声にはならず、その姿をただ茫然と見つめる。
それから周りに居たレピドやルチルや船のみんな――クオンやレイズにゆっくりと視線を向けた。
たぶんあたしは縋るような情けない顔をしていただろう。自分でも分かる。
そんなあたしから、誰ひとり目を逸らさない。
逸らさずそして、何も言葉を発しない。返さない。
ただ黙ってあたしの視線を受け止めて、そして留める。
引き留めて欲しいあたしの気持ちを見透かしているくせに、誰もそれをしようとしない。
あたしとの別れを拒む人は誰も居なかった。
ここに居たいと、そう願っていたのは。
望んでいたのは。
あたしだけだった。