アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


「…もう少し。時間が、欲しい。愛してもらえる自分になれるように…今はまだ、遠すぎるから…だからあたしはまだ、この家には帰らない」

 それがあたしの本当の気持ち。

 結局はあたし自身の心の問題。
 分かっていたつもりで、ぜんぜん分かっていなかったけれど。
 だけど今漸く分かった。気付けた。
 歪(いびつ)でもちゃんと、意味のあることだった。

 今はまだ。
 ひとりで良い。

「……分かった。それが真魚の、本心なら…願いなら。お父さんはもう、何も言わない。ただ……待ってるよ。ここで、みんなと」

 お父さんの濡れた瞳がそこに映した、あたしの姿をそっと揺らす。
 そして一度だけ視線を外して息を吐き、それからその視線を家族に向ける。
 その表情は想像していたよりずっと、あたし達よりはるかに清々しいもので。
 朗らかに高らかに、言い放つ。
 まるで予想外の言葉を。

「ここで突然ではあるけれど、家長命令です。…次にここでみんな揃ってごはんを食べる時までに、それぞれ各自、料理をひと品作れるようになっておくこと。自分の好きな味で良い。誰かの好みの味でも良い。食べさせたい料理をひと品覚えて、よーく練習しておくように。そして、また。ここでみんなで、ごはんを食べよう。全員一緒に」

 突然のその言葉に、その半ば強引な約束に、あたし達は等しくみんな呆気にとられ、それから全員体から力が抜けていくようにゆるゆると脱力した。

 急に何を言い出すかと思ったら。
 だけどお父さんの突然のその“命令”に、文句を言うひとはその場に誰も居なかった。

 長い長い朝ごはんの後、あたしは誰とも言葉を交わさずに無言でお父さんと実家を後にした。
 「いってきます」すら言えなかったあたしを、お義母さんも、海里も、湊も。みんな最後まで玄関先で見送ってくれていた。


 それからお父さんと朝一番での予約をしていた病院で、軽い診察と検査を受けた。
 今現在お義母さんの働いている病院ということで事前に連絡がいっていたらしく、検査はあっという間に終わり結果待ちの間。
 そこがお母さんが長く入院していた病院だということに、後から気付いた。
 子どもの記憶なんてひどく曖昧だ。
 何度もお見舞いに来ていたはずなのに。

 無理を言って、生前お母さんが居た部屋に行かせてもらった。
 その大部屋の半分近くが今は空きベッドで、入院中の患者さんは朝の定期検診と指定時間の入浴中とで誰もいなかった。
 そっと、記憶を手繰りながら一番窓際のベッドに歩み寄る。
 それからカーテンのひかれた窓の外に視線を向けた。

 お母さんがずっと見ていた景色。
 何故かそれが、気になって仕方なかった。
 お母さんがいつも何を考えて、そして最後に何を思っていたのか。
 お母さんが最期に見ていたもの。
 そこには青い空と、青い海と、そして――

「……調度良いかもしれない。真魚、これを――」

 ずっと後ろで黙って見守っていたお父さんが、あたしの背中に声をかける。
 ゆっくりと振り返るあたしに差し出されたそれは、お父さんの片手に収まるくらいの小さな箱だった。
 少し歪みと年季の見て取れる小さな木箱。
 ゆっくりとした動作でそれを受け取り、箱の蓋(ふた)を開ける。

 中身は陶器製の小さな小物入れのようだった。細かな細工と飾りの、小さいながらにずっしりと重たく感じる、綺麗なジュエリーボックス。
 まるで小さな宝箱みたい。
 だけどそれを手にとって、ただの小物入れではないと気付く。
 指先に触れる、箱の底の小さなぜんまい。
 ――オルゴールだ。

「…お母さんから、預かっていたんだ。むかし、お母さんの隠した“宝物”。真魚への、“贈り物”」
「……!」

 ――あの日。
 突然お母さんからの電話で始まった、宝探し。
 あの家に隠してあるから、探してって。
 見つけたらお母さんと答え合わせをするはずだった。
 だけどそれを見つける前に、答え合わせをする前に、お母さんは――

「…これ、どこに…隠してあったの…?」

 見つけられなかった。あたしには。
 それが悔しくて哀しくて――そしていつの間にかそれを、求めることはしなかった。
 忘れたふりをした。なかったことにした。
 どうしたって必ず、お母さんの不在が結びつくそれを。
 
「きっと真魚には、見つけられなかったと思う。何故なら――」

 お父さんが少しだけ、哀しそうな顔を滲ませて。苦笑いと同情をあたしに向ける。

「お母さんが持ってたんだよ。真魚、お母さんはね…あの日はどうしても真魚に直接会いたかった。会ってこれを渡したかった。だけど手術を控えていたからと、真魚が遠慮しているのが分かっていた…。だから、意地悪なゲームをした。隠したふりをして、決して見つかるはずのないこれを探せずに降参する真魚に、会いにきて欲しかったんだよ。本当は、あの日」

 お母さんの死んだ日。
 ――あたしの、誕生日。
 
「たったそれだけだったんだ。お母さんが考えていたことなんて。大切な娘の誕生日に、会ってお祝いを言いたかった。ただ、それだけだったんだよ」

 未だ上手く呑み込めない気持ちのまま、指先でそっとオルゴールの蓋を開ける。
 既に巻かれていたのか、微かに軋みながらも流れ出す小さなメロディ。
 そしてその中には。

 青い貴石(いし)があった。

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