アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
2
真魚、と。お父さんが呼ぶ声が好きだった。
お父さんの中にいる良い子のあたしが、素直になれないあたしの理想だったのかもしれない。
その声音にどれだけあたしへの思いがあるかを、たぶん子どもは無意識に感じ取るのだ。
愛されているのだということを。
じゃあ、どうして。
初対面のこのひとから、それに近いものを感じてしまうのか。
突然目の前に現れた相手が予測する相手なら、いきなり現れて困惑してる。動揺してる。
なのに。
この込み上げる気持ちと涙の理由が、自分にはまったく理解できなかった。
だけど自分の中で何かが、目の前の相手に反応しているのだけはいやでも分かった。
『…名乗りが遅れたね。ぼくは、エリオナス。マナにはリオと呼ばれていた。きみにならそう呼ばれても構わないよ』
「……お母さん…?」
思わず口をついて出た言葉に、エリオナスは肯定するように微笑んでみせた。
まるで人間のようなその仕草。象る輪郭は人間と近しい。
だけどその存在は、人間とはかけ離れたもの。
理解を越えて本能的にそう感じる。
どちらともを知っている、あたしだからこそ。
相手の口から出てきたその名前は、やはり予想通りの相手の名だった。
電話の向こうでイリヤが言っていた名だ。
海の王――エリオナス。
すべての海、すべての海神の父となる存在。
そして、あたしに魂の一部を分け与えたという、“父”――
それがいったいどういう意味なのか、そしてお母さんとはどういう関係だったのか。想像さえしきれない疑問。
だけど彼はついさっき、確実に。
言ったのだ。
あたしを、娘だと。
「…どうして、ここに…ううん、ここはどこ…?」
もとの世界でも、シェルスフィアでもない。
他の誰の存在も、何も感じない。
これまでの世界とは全く異なる場所。分かるのはそれだけだった。
そしてここにあたしを連れてきたのは、おそらく目の前の相手だと。それだけは分かった。
『…ここは、マナとぼくの思い出の場所。きみの気配を感じたとき、ここが一番呼びやすかった。ぼくらの力が、何よりも落ち着く場所…そう思ってここに呼んだ。ふたりきりで、話したかったから』
イリヤから聞いていた印象とはまるで違う。その話し方も雰囲気も。
それは相手があたしだからなのか。
それともただその本質を、あたしが理解できていないだけなのか。
このひと…エリオナスについて分かるのは、お母さんと深い関係にあったということ。
お母さんを、そしてあたしを求めているということ。
そして今、シェルスフィアで。
シアたちからすべてを奪おうとしているということ。
「…あたしと…?」
『そうだよ。きみの存在を知ってから、ずっと会いたくて会いたくて探していた。だけどきみを呼ぶには弊害が多く、ぼくだけではなかなか動けなかった』
「あたしの、ことを…知らなかったっていうこと…?」
以前、トリティアは。
エリオナスが最初探していたのはお母さんだと言っていた。
そして行き着いたのはあたし。
魂の一部のせいか、もしくはあの貴石(いし)のせい。
そう、つまりエリオナスは。
お母さんが死んだこともあたしという存在も、知らなかったんじゃないのだろうか。
あたしは一体、いつ、エリオナスの魂を分け与えられたのか。
あたしが生まれる前なのか、それとも。
エリオナスはあたしの問いに、少しだけ哀しそうな顔をして見せた。
だけど何故だろう。どこか作り物めいたその表情に、心は動かない。不審ばかりが募る。心臓が、どきどきと。
『…そうだね。ぼくはきみの存在を、トリティアから聞くまで知らなかった。ぼくがあの時分けた魂は、ほんの礫(つぶて)、希望のひとかけら。本当に生まれるかはマナ次第だった。マナははじめ、子を産む気はないと言っていたから』
「……え…」
『あの時…マナのお腹に宿ったその消えかけた命の灯(ひ)にぼくの魂を分けたのは、そうしないとすぐにでも、マナは消えてしまいそうだったから。マナには死んでほしくなかった。マナには生きてほしかった。そしてぼくの証を、彼女に残したかった』