アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
4
霧のようにエリオナスの姿が消えていき、広がる海は静寂を取り戻していた。
残されたのはあたしとリズさんのふたりだけ。
エリオナスのつくったこの閉ざされた世界では、すべてが無に等しかった。
時間も何も存在しない。
おそろしいくらいに静かで寂しい場所。
でも、そうか、だからこそ。
リズさんが消失を免(まぬが)れているのはその所為なのかもしれない。
真名(まな)を取り戻したいま、リズさんは僅かながらも力と記憶を取り戻したように見える。
この事態にも動じることなく、その瞳をあたしに向けた。
『…エリオナスのいうことは一理ある。アンタはどうしてそこまでして、あの世界を救いたいんだい…? アンタもおそらく身勝手に、あの国の為だけに喚(よ)ばれたんだろう?』
「…はじめは…そうかもしれない。一番さいしょは、シアの望みだった。でも、今は。もうあたしの望みでもある…」
思わず膝をついた砂浜。
馴染んだ砂の感触が、懐かしくもどこか色褪せて感じる。
見た目だけはまるで同じ世界なのに、どこか違う。
ここにあるものは全部、エリオナスが作ったもの。
自分の思い出とお母さんの為だけに作った仮初(かりそめ)の地。
――彼の心の拠り所。彼の思いにしか開かない。
だけど、あの地は。
あの世界は――
「あの世界は…シェルスフィアは…あたし達が出会った場所だから…! そしてこの先も大事な人たちが…未来を生きていく場所だから…! 守りたいの、あたしは……っ」
あたし達が出会った海。
すべてが始まった場所。
そこで生まれた名もなき感情。
知らぬふりして押し込めた言葉たち。
だけど捨て去ることなどできなかった、あたしだけの想い。
あたし達のすべてが、あの王国にはある。
あたし達のキセキを生んだ、あの海に。
「そうでしょう、リリ……!」
そう叫んで思わず。
はっと、口元を片手で覆う。
いま、何を。
自分の意思を置いて口から出た言葉は、まるで憶(おぼ)えのないものだった。
あれは自分の言葉ではない。
あれは、まるで――
『……そうだね、あそこは…』
あたしの言葉にリズさんは、その瞳をそっと細め。
それからまっすぐ目の前の海を見据えた。
『約束の場所だ、アタシたちの。マナを探すことばかりを考えて、永い時を待ち過ぎて…遠回りをしてしまった』
そう呟いたリズさんの、体が僅かに発光する。
空へと昇る光の粟粒(あわつぶ)。
お城の地下、リズさんの部屋で見たものと同じものだ。
何故だか懐かしくて堪らないその光。
僅かばかりのリズさんの魔力が光を放つ。
『マオ、アンタ…貴石を持っているだろう。おそらくマナがアンタに託したものだ』
「…貴石…」
言われて握りしめたままだった、自分の拳をようやく解く。
そこにはシアの短剣と、ふたつの貴石(いし)。
ひとつはお母さんから奪い、ひとつはお母さんから贈られたもの。
シアの短剣はいったん鞘におさめ、それから制服のスカートのポケットにしまった。
手の平に並べたそれを見つめたリズさんは、両の瞼を押し付けるように強く瞑った。
『…そこに居たのか、マナ…』
「…? どういうこと…?」
わけが分らず戸惑うあたしに、リズさんはゆっくりと瞼を持ち上げて微笑んだ。
苦笑いにも似た、その儚い笑み。どこか泣きそうなようにも見える。
『…ひとつはマナが生み出した貴石(いし)だ。もとはひとつのものを、マナの力でみっつに分けた、約束の貴石。そしてもうひとつは…むかしアタシがマナに贈ったもの。アタシが初めて零した貴石』
僅かな大きさが違うだけで見た目はまるで同じその貴石の、どちらがそれであるかはすぐに分かった。
お母さんがずっと身に付けていたお守り。それがきったリズさんの貴石。間違いない。
お母さんの本心は、本当の想いはあたしにはやはり分からない。
だけどいつも肌身離さず、死ぬ瞬間まで傍に置いていたもの。
本当は肉体と一緒に焼かれるはずだったのだ。
あたしが勝手に奪うまでは。
身勝手に引き離したのはあたし。
そんな大事なものを、あたしは――
『そのふたつはきっと、いまここにこうして在(あ)る運命だったんだろう。マナもそれを予測していたのか…紛れもなくマナがふたつとも、アンタに託したんだ。むすめである、アンタにね』
「……でも、これは…リズさんの貴石は、本当は…!」
『その証拠に、これから。その貴石がアンタに力を与える。アンタの望みを叶える為に』
「……え…?」
『ここから出て、あの王国に行きたいんだろう?』
「…っ、できるの……?!」
思わず勢いよく、リズさんを見上げる。
リズさんはあたしの勢いに苦笑いを漏らし、それから再び水平線に視線を向ける。
『今のあたしじゃエリオナスの作ったこの箱庭に穴を開けることすらできない。だけど、マオ。アンタの力なら――』