アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
お母さんはあたしから体を離すと、あたしの手にあった短剣を鞘からするりと抜いた。
なくなった貴石の分だけ、僅かに軽くなった装飾の鞘。それでもまだ煌めいていた。
お母さんの手の中で、その切っ先が鈍く光る。
当然のようにその刃は、短いまま。
この隔絶された世界では今までのようには力が及ばない。
あたしの力ももう殆ど残っていない。
そう、思っていた。
だけど、お母さんという存在は。
おそらくあたしの想像をはるかに超えるひとなのだ。
リズさんが確信をもってそう言っていたように、お母さんならあたしの望みをかなえてくれるのだろう。
それだけの力が、お母さんにはあったのだ。
仮初の陽(ひかり)に反射する光を集めながら、お母さんのその隣りに当たり前のようにリズさんが寄り添う。
まるで輪郭を溶かすように、ぴったりと。
はじめからそうであるかのように。
寄り添い合ったままふたりは、昔話をするように囁き合う。
ふたりにしか聞こえないように。ふたりだけの世界をつくる。
「リオとは最後まで、分り合えないままだったなぁ」
『…永く生きた分、失うものが多過ぎたのさ、あれは。だから充分その手に持っていても、おそれるあまりに手離せず、何より自分を捨てられない』
「まだ何も持たないリオと、始めたのはあたしだった。最初に与えたのは。だから――」
その瞳が、あたしに向けられる。
とても同じ年の頃とは思えない大人びた笑み。
あたしとはまるで違う。
まるで違う世界に生きているかのような、そんな風に思っていた。
遠い、遠い存在だった。
だけど最後。
お母さんが選んだ世界はあの場所だった。
あたし達の世界だった。
あたし達の傍だった。
「あなたが終わらせてあげて。きっとひとりでは、止められないのよ。あたし達は彼を置いていってしまうから」
同じようなことを、誰かが言っていた。
誰か。
そう、エリオナスが。
奪われた憎しみが、その矛先がいまシェルスフィアに向かっている。
お母さんがそう望んでいるって。
終わらせるのは、あたしだと。
その心が通じ合うことがなかったように、ふたりの心はすれ違ったままだったのだ。
たぶんこのふたりはどこかできっと似た部分があったのだろう。
だからこそ決して、譲れないものもあった。
同じ道は、選べなかった。
それなのに、最後にはあたしに選べとみんな同じようなことを言う。
あたしのスカートのポケットで、残っていた何かが小さくふるえた。
「ああ、でも、どうしよう。あたしとリリで出口は作ってあげれる。だけど指針がないと、送ってあげれないの。流石に迎えは期待できないし」
『……指針なら、いま繋がったよ。マオ、それに応えな』
言ったリズさんが目だけであたしのスカートのポケットを指す。
シアの短剣がなくなったポケットに、まだ残っていたもの。
どうしてだろう。意味もなく涙が滲んでしまうのは。
震える手で取り出す、携帯電話。
いつだってこれは、どこにいたって。ちぐはぐな心を繋いでくれた。
相手は見知らぬ番号で、だけどそれがどこに繋がっているのかは不思議と分かっていた。
あたしを呼んでいるのが、誰なのか。
ずっとそれは、ただひとりだった。
その様子を見たお母さんが、状況をただしく理解したように目を細めた。
「なら大丈夫ね。違えることなく、必ず。そこへ送り届ける。あとは全部、あなた次第」
「…お母さんが…一番に差し出したものって、なんだったの…?」
震えたままの携帯電話を片手に、あたしはお母さんの顔をまっすぐ見つめて問いかけていた。
それが最後だと分かっていたから。
結局文句も言いたいことも何も言えなかったけれど、これだけはどうしても訊きたかった。
隔てた世界を越えて、永い時をも越えて、想いを繋いで。
世界の為に、誰かの為に、かつて犠牲になったひと。
そうして一度、世界を救った。
命とは別に差し出したものがあったはずだ。
それはきっと、大事なもののはず。
あたしは多分泣きそうな顔で、それを訊いていたんだと思う。
お母さんは苦笑い。
“宝探し”の答えを用意していなかったお母さんの姿が、ふとそこに重なった。
答えが正しくあるとも、宝が宝石であるとも限らない。
いつだってその人なりの望みがそこにあるだけだ。
「まだ失ってない。これから失うから。だから今なら、言える」
その答えにならない答えを聞くのと同時に、お母さんの指先が、携帯電話の通話マークをタップする。
あたしの迷いを振り払うように。
そうだ、お母さんは。
どこかシアに似ている。
揺るぎない瞳も、その残酷な優しさも。
泣きながら繋がる世界。
電話の向こうからは
いま一番会いたいひとの声がした。