アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
エピローグ
始まったと思った夏休みが、折り返しにさしかかる頃。
補習授業の為に教室内は、いつものようにクラスメイト達で賑わっていた。
5日間の補習授業も今日が最終日。
午前のみの最後の授業が終わって、皆もう帰り支度をしていた。
トイレから戻って自分の席についてすぐ、加南が笑顔で駆け寄ってくる。
加南の笑顔は真夏によく映える太陽みたいだ。
それから早帆が、七瀬たちが続く。
いつものメンバーが椅子を寄せて机を囲み、授業の愚痴と開放感をさんざん口にしながら夏休み前半を振り返り、この後の後半に思いを馳せる。
暑さに仰ぎ、熱にときめきながら。
夏休み前半の思い出といえば、一連のあたしの挙動不審な行動の理由を問い詰められて適当に交わす攻防と、あたしの誕生日祝いがメインだった気がする。
あとはバイトと帰省とお墓参り。
宿題も一応ちゃんとやってる。
早帆と加南からかねてから希望されていたうちへのお泊りも半ば強制で実現された。
自分の、自分だけのテリトリーに誰かに入られることにはずっと抵抗があったけれど…実際やってみれば、案外。
なんともなかった。あっさり馴染んだ。そんなものだったんだ。
あっという間に日は過ぎた。
あたしは16歳になった。
もうすぐ花火大会がある。
それが今のところ、楽しみだ。
空っぽだと思っていた日常も、この胸の内も。
気付けばいつも何かで埋まっている。
怠惰に無気力に過ごしていたはずの日々は、いつの間にか忙しない。
それでもぽっかり空いた穴だけは、どうしようもない。
忘れられない。
失くせない。
そこに確かにあったものを。
それで良いんだと思う。
あの世界への、彼への想い。
失ってはいない証の痛み。
これと共に生きていくのだから。
あたしの広げたスケジュール帳を隣りから覗き込みながら、七瀬があたしの横顔に言う。
わざと空けている距離を躊躇なく、そして遠慮など微塵もなく詰めながら。
「真魚、そろそろバイト、辞めたら? お父さん達と和解したんでしょ?」
「…和解、というか…でも今のバイト、気に入ってるから。シフトは減らそうと思うけど…それにお小遣いはやっぱり要るしね、みんなで遊ぶのに」
「…ひとり暮らしは、まだやめないの?」
「…七瀬、お母さんみたい」
「お母さん、て…口うるさいってこと? 俺は真魚が心配で」
「はいはい分かってるってば、心配性だねってこと」
折れないあたしにいつも折れるのは七瀬のほう。
あれから過剰なほどに七瀬はあたしに構う。
分かり易いほどに、隠す気もなく想いを晒して。
だけどあたしも、そんな簡単に流されてはしまえない。
…そうできたら楽だけど。
それができないから苦しいけど。
だけどそれが選んだ道だ。
七瀬にそれを言っても、それだけは七瀬も、折れてくれない。
傍からあたし達のやりとりを見ていた加南が、理解できないといった顔で呟いた。
「ふたりは、どうして付き合わないわけ?」
言われて思わずかたまって、互いに沈黙で見つめ合って。
苦笑いを先に零したのは七瀬のほうだった。
「真魚には既に、王子さまが居るからね」
「えぇ?! なにそれ初耳!」
「だから七瀬の猛烈アピールにもなびかないの?!」
分かり易く大げさに、喰いついてきたのはコイバナ大好き女子ふたり。
男子は驚いた顔をしていたけれど、七瀬の様子にか言葉を挟むことはしなかった。
七瀬には…七瀬にだけは、真実を。
あの世界でのことを、話してある。
もし訊かれたら、話すと決めていたのだ。
すべてをではない。ただ。
七瀬にも聞く権利があると思ったから。
僅かとはいえ、巻き込んでしまった以上。
あたしの嘘みたいな話を疑うことなく受け止めて、それでも好きだよ、と。
言ってくれた彼の手を、どうしたってあたしはとれなかったけれど。
「七瀬よりイイ男なの?! ちょっと会わせてよ、見てみたい!」
「あれだけ色恋に興味のなかった真魚を、惚れさせるなんてどんな男よ」
きゃあきゃあと盛り上がるふたりに、あたしは曖昧に笑って視線を外す。
絶対言われると思った。
だから言わなかったのに、七瀬め。
それからペンを握っていた右手の、手首に巻いたブレスレットをそっと盗み見る。
最後の時。シアの流した涙の雫を、かためた透明な結晶。
バイト先で買ったパワーストーンのブレスレットに紛れさせて、ずっと身につけている。
これだけはなぜか、残っていたのだ。この手の中に。
あの世界で得たものは、すべて失っていたあたしの、唯一残ったもの。
お守り、だ。
「たぶん、もう二度と…会えないから」
「…なにそれ、それでもまだ、好きなの? かなしくない? そんなの」
少しだけ棘のある声で、言ったのは早帆だった。
だけどその心が、あたしを心配してくれているのだと、もうあたしは分かっている。
だからあたしは笑って応えた。
「かなしいよ、でも」
窓の外では蜩が、また大声で鳴いている。
儚い命を嘆くように、それとも愛を叫ぶように。
夏は好き。だけど、嫌い。
どっちにしろ胸が痛むから。
きっとずっと、忘れられないから。
「それでもあたしは、彼が好き。子どもっぽい性格もちょっと意地悪なところも、人一倍責任感の強いところも、そしてその弱さも優しさも…ぜんぶ」
だけど、不思議だ。
一瞬だけ、夏が遠ざかる。
彼がまたあたしを、呼んでいるような気がしてしまう。
そんなわけないのに。
今すぐに飛んでいきたくなる。
もう一度抱き締めて、そしてまた抱き締めて欲しい。
だけどすべての願いも望みも、彼が生きていればこそだ。
彼の無事を…もう祈ることしかできない無力な自分。
だけど信じている。
目には見えないものだからこそ、その存在は。
救いがあるものだろう。
この世界ではそうであるように。
「もう全部、彼のものなの」
そんなあたしの感傷を置いて、広い校舎の片隅でざわめく気配が近づいてくる。
それに気付いた時にはもう、すぐ傍までそれは訪れていた。