アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
「また明日」
最後の語尾が震えたのは、それが叶わないからじゃない。
信じる心が唇を震わせた。
通話の切れた少し熱を持った携帯を、両手で握りしめる。
帰るんだ、あたしは。
だってここは、あたしの世界じゃない。
「…あの、マオ? だれか、居るんですか?」
背中からかけられた声に、はっと息を呑んで振り返る。
そこには目を丸くしたジャスパーが、木戸に手をかけてこちらを見ていた。
そうだ、こちらが。
この世界が今の、現実だ。
「…あ、その、ちょっと、啓示が…おりてきて…」
引き戻される現実に自分の設定を思い出しながら、しどろもどろと答える。
どうして携帯が通じたのかは分からない。
だけどこれ以上余計な印象を与えるべきではない。
そっと後ろ手に携帯の電源を切った。
「そうなんですか、ぼくはぜんぜん魔力を持って生まれなかったので、そういったことは分からないのですが、本当に魔導師さんなんですね」
無垢な笑顔を向けられて、僅かに胸が痛んだ。
だけど仕方ない。
生きる為の嘘だ。
それからひとまずお風呂を再開する。
脱いだ制服はジャスパーが洗って塩を落としてくれるというので預ける。
携帯だけは、手元に残して。
結っていた髪を解くと、塩の粒がざらざらと手につく。
限られた湯で少しずつ洗って、顔と体はさっと洗って流した。
それから少し覚めた湯に体を沈める。
冷え切っていた体に、温度がしみわたる。
手足の指先からじんわりと。
湯船の中で体を縮めて、瞼を伏せた。
湯嵩が減って、届かない肩がひやりと冷えていく。
シアの手をとった。
それからこの世界に来たいと思った時、シアの元に行きたいと。シアの力に、なれたらと――
だけどやっぱり、あたしには無理だ。そんなこと、できるわけない。
こんな、自分の身を守るだけで、精一杯なのに。
シアに抱くこの感情は、もうわかっていた。
幼い自分と重なるその影。
同情だ。
それじゃひとは、救えない。
温かな水面が揺れる。
お守り…お母さんの石だけは、絶対に取り戻したい。
あたしにとっての一番はそれだ。
だってあたしには、何もできないよ――
ぎゅっと、掴んだ指間でお湯が撥ねる。
それがそのままゆっくりと、ふわりと浮かび上がった。
そしてそれが淡い光を放つ。
視界の端でそれを見つけた時にはもう、浮かび上がる滴の群れに囲まれていた。
「な、に…?!」
その光景に思わず身をひくも、そこは狭い木槽で。
自分の一動で作り上げる湯の滴は湯船に落ちず、重力に逆らってふわりと漂う。
微かに香る花の香りは、石鹸に練りこまれたもの。
湯にも染みたそれが、充満する。
――マオ
「…! この声」
旧校舎の、プール。
あたしを導いた、あたしの内から聞こえた声。
「あんた、なんなの一体…っ」
予感はしていた。
予想はしていた。
だけどそれを確かめるのも認めるのも、自分で口にするのも。
イヤだった。
確かめるのがこわかった。
――知っているはず、ぼくの名前
「……っ、卑怯よそれ…!」
滴の漂う虚空を睨みつける。
姿はない。見えない。
だけど確かに、ここに居る。
それが分かって、受け入れてしまう自分もイヤだった。
平凡な女子高生で居たかった。
あの世界にまた、帰る為に。
――王の末裔は約束を違えた
「…王の、末裔…一族? シア達のことを言っているの?」
――人間は思いあがりをたださない限り、加護も叡智も得られない。待っているのは亡びだ
「……間違いを、おかしたっってこと…?」
――ぼくは、約束を守る為に王と契約した
「……約束…」
シアの話に、似たような言葉が出てきた気がする。約束を、守るために――
――その約束は、マオ、君でなければ叶えられない
「…っ、そんなはずない、やめて…!」
思わず耳を塞ぐ。
ムダだと分かっていても。
叫んだ声に弾かれるように、漂っていた滴が一斉に落下した。
ばしゃばしゃと勢いよく、肌と水面を激しく打つ。
声が、消えていく。自分の中に。
『呼べば、力を貸してあげる。ただしく使う意志があるなら』