アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
2
「総員、配置につけ!」
いつの間にか甲板に出ていたレイズが大声で叫んだ。
いくつもの足音と物音が船の上を駆けずりまわっている。
初めてのその緊張に、ふらつく足であたしもなんとか甲板に出る。
マストに居た白いカラスがほのかな光を放っていた。
「何が来る、マオ」
あたしの腕を支えながら、レイズが低い声で尋ねる。
レイズの顔は見れず、あたしの視線はその空に縫い付けられたまま。
「…わからない…だけど、このカンジは…」
知らず体が震えた。
この船に向かってくるその存在。
それがただの人間じゃないことだけは確かだ。
そしてその感覚に、覚えがあるのも――
「トリティアと、似てる――」
次の瞬間、衝撃波が船全体を大きく揺らした。
レイズがあたしを庇うようにその腕に抱く。
飛ばされないよう、事態に呑み込まれないよう必死に、その胸にしがみつく。
船全体が大きく煽られているようで、立っているのもやっとだった。
落ち着け、冷静に。
今この船に魔導師はいない。レイズも言っていた。魔力を感知したら、逃げるのみだと。
“あれ”を迎え打てる者は、誰も――
「――おや、これは…」
衝撃が落ちたのは船の甲板の真ん中だった。
うっすらとたつ砂煙。そこに揺れる人影は、みっつ。
「当たりと外れ、どっちかな。まさか海神トリティアがここに居るとは」
全身を黒いフードとマントで覆ったその人物の、顔は見えない。
声音を聞く限りは温厚そうな青年の声だ。
その声の主が一歩、船を踏む。
先ほどの衝撃でそこらじゅうに船員たちが倒れていた。
「おいコラ、アンタに出て行ってもらっちゃあ困るって。ひっこんでろ」
先に出たその人物を押し返すように、後ろのふたりが前に出る。
最初の青年は「そうだった」とおどけるように言って後ろに下がった。
「契約“済み”か?」
「まだのようだ。本当にどうしてここに、居るんだろうね?」
出てきた黒いフードの男が、ふたり。体格はまるで正反対だ。
線の細い影と、筋肉質を思わせる大きな影。顔は見えず、視線がどこに注がれているのかも分からない。
だけど、分かる。彼らが話す存在がどこに居るのかを、あたしは知っているから。
「マオ、俺から離れるな」
あたしを背に庇いながら、レイズが唸るように言う。
言葉にはできずも頷きながら、とっさにスカートのポケットに手を伸ばした。
シアからもらった、短剣。それを確かめる。
影の大きな男と、レイズの視線が交差する。
「その女を渡せ、そうすれば船にも他の人間にも手は出さない」
「海賊相手に、ナメたことを言ってくれる」
「なるほど海賊船か、ならば――」
レイズと対峙した男が、腰に手を伸ばす。
すらりと閃光が日の光に反射した。
「奪うまでだ」
その男がレイズに襲いかかるのと同時に、あたしは後方へ突き飛ばされた。
金属のぶつかる激しい音。体格差からレイズが数歩押され、それでも踏みとどまる。甲板の床がみしりと鳴って、大きく揺れた。
レイズが背を向けたまま叫ぶ。
「ルチル! マオを船の奥へ!」
思わず尻もちをついたあたしを抱え上げたルチルが、次の瞬間には船の後方に吹き飛ばされていた。
今何が起こったのか、分からない。
一瞬抱き上げられた体は重力のままにまた落下する。
「…っ!」
「ルチル! …くそッ、マオ!!」
はっと目を開けると、自分に落ちる影。
見上げたそこには黒く長い裾がはためく。
いつの間に、一体、どうやって。
ごくりと喉が鳴る。
振りかざしたその手には、剣。
下ろされるその先に居るのは自分だ。
「――!」
咄嗟にポケットから短剣を取り出し、両手でそれを目の前にかざす。
その瞬間、バチリと電流が四方に走り、相手の太刀を薙ぎ払うと共にフードを攫った。
衝撃によろめいた相手は、それでもひくことはせず体勢を立て直す。
使えた、威力はわからないけれど。
防護の魔法。
だけど使えるのは、一度だけ。
あたしにはもう、何も――
――名を
「…!」
声、が。
こんな時に限って、見計らうように。
勝手だし卑怯だ。
――選ばなければ。この世界に来たとき既に、その選択は迫られている
そんなこと選びたくない。あたしは欲しくない。だって力を手にしたら、いきつく先はひとつでしょう?
黒いフードが脱げた相手の顔が晒されるも、見下ろすその顔は逆光でよく見えない。
おそらくメガネであろうレンズの、反射する光だけが体に刺さる。
もう一度振り上げられる、その腕。
――マオ
やめて、こわい。あたしはこんなこと、望んでない。戦いたくなんか、ないよ。
――だったら奪われるだけだ。かつての尊厳のように
奪うのは、だれ?
奪ったのはあんたでしょう?
あたしの世界を、平凡を、日常を。
それでも。
どんなに勝手で卑怯で理不尽でも、ここで死ぬわけにはいかない。
死んだら帰れなくなる。
全部まだ、置いてきたまま。
約束した。
必ずまた、会おうて。
「――――…ッ、トリティア…!」
目の前でかざしたままの短剣の、鞘を抜く。
それは無意識のことで、本能的な行動に近かった。
「だったらどうにかしてみせてよ!」
現れた刀身が、光を帯びる。
どうして、短剣のはずなのに。
鞘から抜いたその刀身は、既に鞘の倍以上。
銀色の鞘がカランと床に転がる音が遠くで聞こえた。
――それは、マオ。きみの役目だ
引き抜いたその勢いのまま、剣を払う。
薄く長い刀身は透明で、まるで重さなど感じなかった。