アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
「…!」
だけど目の前に居た黒いマントの男は完全に不意を突かれ、突如現れたその刃に咄嗟に身をひく。
僅かばかり間に合わなかったその胸元に切っ先が走り、マントの下が顕(あら)わになった。
肌には届いていない。
白いシャツと、翻る青。
「成立したか」
ぼそりと落とした声は、まだ若い。自分と同じくらいに思える。
自分から数歩離れてこちらの様子を伺うその男の胸元に、思わず目を瞠(みは)る。
そこに見覚えのあるものがあった。
「……うそ」
カタチだけでなんとか剣を構えるも、意識が集中できない。
だって、それは。
「…! お前、その制服…まさか…」
混乱するあたしを見ていたその目が、ようやくあたしの全身を捉える。
あたしもそこでようやく相手の顔を見ることができた。
はじめて見る顔。
当たり前だ、この世界に知り合いなど居るわけない。
だってここは、違う世界なのだから――
「…碧永沢(とがさわ)の生徒か?」
黒いマントの下に覗くその服装は、私立 碧永沢(とがさわ)学院の男子生徒の制服。白いシャツの胸元に縫い付けられた校章が、その証。
あたしが着ているセーラー服の胸元にも着いている。全く同じ、校章が。
つまり、彼は――
「どうやら同じ場所から来たみたいだな。だけどオレはもう、あの世界は捨てた。オレは今、アズールに属してる。アズールフェルの魔導師・リュウだ。お前は?」
今、目の前でリュウと名乗ったその人物は
あたしと同じ世界の、しかも同じ学校の生徒で
そして今、あたしの目の前で異世界の人間として、あたしに刃を向けている。
「……名乗れないのか?」
「…待って、頭が、追い付かない…」
混乱する頭をなんとか落ちつけようと試みるけれど、余計に思考回路はこじれる。
リュウは、どうしてここに?
あたしみたいに、誰かによばれて?
アズールの魔導師だと言った。それはつまり、シェルスフィアの隣国で、今最も関係が注視されている国だ。
そのリュウ達が、この船を襲った。
それってとっても、マズイ状況だよね…?
そして、そしてリュウは――
「…戻る気が、無いってこと…? もとの世界に」
ようやく口にしたその言葉に、リュウは向けていた刃を下ろした。
ひかれるようにあたしも形だけで構えていた剣を下ろす。
「ああ。戻る価値などない。オレはあの世界には何の未練もない。お前は、戻りたいのか?」
「だって、あそこは…っ、生まれ育った場所じゃない…!」
「随分狭い価値観で語るんだな。それだけだ」
「ここには誰も居ないじゃない! 家族も、友達も…、誰ひとり…!」
「生憎もとから居なかった。あっちはとても、くだらない世界だったよ」
見下ろすリュウの、その瞳。
メガネのレンズ越し、なんて冷たい色。
じわりと焦がれる。何かがひかれる。
「ひとりで生きていくのに、生きる場所など自分で選べる」
――あたしも。
ひとりで生きていけるのなら、どこでも良いと思ってた。
あの世界にはもうあたしの居場所など、どこにも無いと、そういつも感じていた。
あたしが居なくても足りる〝家族"
上辺だけの希薄な〝友達″
いつもどこか、何かが欠けたように埋まらなくて。
はやく大人になれたらと…
誰とも関わらず、干渉せず、ひとりで生きていけたらと
ずっとそう、思っていた。
置いてきたものなんて、あった?
あの世界に。
あたしが帰りたいと、思った理由は?
ここに居たくないと、思った本当の理由は――?
何も返せない。上手く言葉が出てこない。
リュウの瞳があたしを見据える。
それからどこか呆れたように、笑うのがわかった。
「お前は選ぶことすらしていないな。心を半分、あっちに置いているのか。そういうヤツが真っ先に死ぬんだ、この世界では」
見透かされたようなその瞳。思わず逸らしたその先で、リュウの手元から先ほどまで握られていた剣が消えていた。
くるりと背を向けたリュウが、レイズと剣を打ち合っていた男の方に向かって歩き出す。
「アール、いったん退こう。状況が変わった」
「マジかよせっかくのお楽しみだったのに! いいのかよエル!」
すたすたとその横を通り抜けるリュウに返しながら、アールと呼ばれた男は後方で様子を見守っていた青年に首だけで振り返る。
エルと呼ばれた男は、自分の隣りに戻ってきたリュウに視線を向けた。
「いいのかい、リュウ」
「今あれとやり合うのは厄介だと判断したんだ。海神を受け入れたばかりのあの未熟な器では、力を安定して使えない。想定外の力に巻き込まれでもしたら本末転倒だろう。トリティアの情報も不足しているし、とりあえず出直した方が得策だ」
「いいだろう。アール! 戻ろう」
「ちっ、勝負は持越しだな、海賊船の船長殿。名を聞いておこうか、オレはアール」
言って剣を払い、レイズと距離を置いて対峙する。
レイズは払われた剣先を男に向けたまま、警戒と敵意の目で睨み返す。
「なぜ俺が船長だと分かる」
「周りの連中を見てれば分かるさ。いい船だな、壊すのが惜しい」
「させるかよ。俺はこの海賊船アクアマリー号船長、レイズ・ウォルスターだ」
「覚えたぞ、その名。次はその首をとる」
フードの下でにやりと笑い、アールと名乗った男はリュウ達の元へと踵を返す。
この場の撤退が伺えた、その時だった。
白いカラスがふわりとあたしの肩に舞い降りた。
シアの声は聞こえないけれど、未だその体は淡い光を放ったまま。
その存在をすっかり忘れていた。
茫然としたまま見つめるあたしに、カラスは何も返さない。
その視線はまっすぐエルと呼ばれた男だけに注がれている。
白いカラスの視線を受けて、その男はこちらに向き直った。
思わずびくりと身構えるも、あたしのことなど眼中に無いことに気付く。
「――リシュカの使い魔だね。交信魔法が発動している」
「気付いていただろう、エル。始末して行かなくていいのかあれは」
「もう遅い。それに、好都合だ」
白いカラスの向こうには、おそらくシアが居るはず。
そこでずっと、見ていたのだろう。
エルと呼ばれていた男が、おもむろに自らのフードを外した。顕わになる、その相貌。
「――…!」
その顔を見たレイズと、それから船員たちの息を呑む気配が聞こえた気がした。
口元に笑みを浮かべたその顔。
誰だろう。どこかで見たことがある気がする。誰かに似ている気が――
「ジョナス殿下…!」
零れ落ちるように口にしたのは、エルの顔を真正面から見ていたレピドだった。その顔が、蒼くなる。
その名前は、ついさっき聞いた名前だ。
そう、〝ここに居るはずのない″人の名。
この国を追放されたはずの、シアの義理のお兄さん――
「――シアン。そこに居るんだろう、リシュカも。きみがアズールフェルのシルビアとの婚約を断ったことで、その座が僕にも巡ってきた。僕はアズールの王になる。そして次は、シェルスフィアだ。この海を統べる為、僕は戻ってきた。この国に――」