アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
3
あたしの目からは無意識に、涙が零れ落ちた。
いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って流れたそれが、握っていた拳の上に落ちる。
そしてその瞬間カタチを変えたそれに、あたしは思わず言葉を失った。
あたしの拳に落ちた涙の滴の感触が、まるで違うものだったからだ。
「…え、な、なにこれ…」
反射的に溢れる涙を自分の手の甲で拭う。
その手を滑るようにして転がったそれが、今度はテーブルの上へと弾き跳んだ。
カツンと小さな欠片がテーブルに弾かれ、それからころころと転がる。
それは向かいに居たシアの手元まで。
突然の不可解な現象に思わずあたしの涙も止まり、茫然とシアの手元を見つめる。
シアが指先で摘まみ光にかざしたそれは、今さっきあたしの目からこぼれたものだった。
「…結晶化か。トリティアの能力だな」
「…結晶化…?」
「ああ。液体をこうして結晶化するこの力こそ、トリティアの持つ能力のひとつだ」
言われてはっと思い出す。
船の上でリュウに襲われた、あの時。
とっさに鞘から引き抜いた短剣の刀身が、薄い氷のような長い刀身になった。
あれもトリティアの力だったんだろうか。
「にしてもまだトリティアの能力を上手く扱いきれていないようだな? マオ。力が際限なく顕現してしまっている」
「そんなこと言われても…未だに受け入れ切れてないんだよ、トリティアのことは。シアと似ていて強引だし勝手だし」
「はは、仮にも海の神たるものがマオみたいな小娘にそう言われては形無しだな。なんにせよ少し制御する意識をしないと、能力がだだ漏れでは体に悪いし周りへの影響も大きい」
「いいよ、そんな長く間付き合う気もないから」
「そうか。…でも、綺麗だな。マオの涙の結晶とは思えん」
「ちょっとそれどういう意味」
「もらっても構わないか?」
シアは何気なしにそう言って、指先の丸い透明な結晶に向けていた目をまたあたしに向ける。
あたしは一瞬何を言われたのか分からなくて、言葉が出なかった。
「お守り、だ。これはお前に返さなくてはならないからな」
言ってシアが懐から取り出しテーブルの上に置いたのは、あたしが再びこの世界に来た原因でもある、あたしの“お守り”――お母さんの形見の青い石だった。
「約束だ、マオ。無事もとの世界に帰れたなら、もう決してこの世界に来ようとするな。それがおれからお前への、最後の望みだ」
それは。
シアからあたしへの別れの言葉だと、無意識に理解した。
「……わかった…」
また滲んだ涙を零さないよう意地で押し込む。
これ以上シアの前で泣くのは卑怯だと分かっていた。
「…では、行け。送ってやりたいところだが、生憎もたない」
「ううん、そんなのいい。どこか、悪いの?」
よく見るとシアの額にはうっすらと汗が滲んでいる。
笑みの形を作ってはいるけれど顔色も良くない。
「この体は呪われた体だからな。術で抑えていた分、それを解いた時の反動とやらが大きいんだ」
「…!」
言う間にシアの呼吸が浅くなっていくのが分かる。
思わず立ち上がったあたしにを、シアが右手で制した。
「これ以上の同情は無用だ」
きっぱりと言われ、駆け寄ろうとした衝動を抑える。
そうだ、あたしにはもう。
シアに触れることも、その手を取ることも、心配することでさえも許されない。
それを選んだのは、あたしだ。
「そんな顔するな、マオ。お前が行った後リシュカにまた術で封じてもらうさ。一度戻ると暫くは戻れない。最後なら尚、この姿でお前を見送りたかった」
「…シア」
「最後くらい、カッコつけたいじゃないか」
そんな弱々しく笑って言われても、説得力ない。
シアは隠し事が下手で、本心を隠すなんてできないくせに。
気丈に強く振る舞おうとするその姿のどこかに、必ずと言っていいほど僅かな弱さを滲ませてしまうくせに。
堪えきれず頬を流れた涙を手の甲で拭う。
手の甲からも零れたそれは、今度はそのままテーブルに吸い込まれた。
「ありがとう、シア」
できる限りの笑みを作り、テーブルの上のお守りを手に取る。
やっと、戻ってきた。
嬉しいはずなのに。
これで良かったはずなのに。
何か大事なものを引き換えにしてしまった錯覚に、心が震えた。
最後まで笑って見送ってくれたシアを背に、部屋を出る。
シアの後方で控えていたリシュカさんとは、結局一言も言葉を交わさなかった。
リシュカさんからしたらあたしみたいな身勝手な人間、軽蔑していることだろう。
何ひとつ言葉をあたしに向けなかったのは、話すことすら嫌だったのかもれない。
あの場で斬り殺されずに済んだのは、きっとシアが居たからだ。
シアはそれを止めるからだ。
屋敷のようなその家の長い廊下をひとりで歩く。
大きな窓が並ぶ長い廊下だった。
窓の外には変わらずお祭りのような喧噪が広がっている。
この国の現状を憂いながら、それでも笑って生きる人々。
シアは式典で国民たちに、何を語ったのだろう。
もう広場では流れたのだろうか。
戦争が起こると。
必ず誰かが死ぬと…それが今隣りに居る人かもしれないと。
それを知っても尚、笑っていられるのだろうか。
それでも尚、戦場に出向くのだろうか。
何の力も持たないのに。
廊下の突き当たりに扉が見えた。
両開きの大きな木の扉だ。おそらくあそこから外に出られるのだろう。
その扉の前には長身の人影。
それが誰なのかは想像がついた。
顔をしっかり見たわけではないけれど、先ほどシアにクオンと呼ばれていた人だ。
細身の長身で、どこかで見た制服を着て腰には剣を下げている。
どこだろうと思い記憶を探ると、王国が統治する海上船団管理局でだと思い出した。
局の出入り口や中にも、同じ制服を着た人達がたくさん居たのだ。
おそらくこの国の軍人か、兵士か。
ここに居るということは、シアに近しい人なんだろう。
あたしの姿を確認したらしいクオンが、ゆっくりとこちらに歩を進める。
そして流れるような動作で腰元から剣を引き抜き、それを躊躇なくあたしの首筋にあてた。
音も無いその動作に、あたしは足を止めてただ相手を見上げる。
不思議とこわいとは思わなかった。