アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
「い、イリヤ…?!」
先ほどまでとは明らかに様子がおかしい。
どうしたというのだろう。
あたしの声にイリヤはハッと顔を上げ、それから持ち歩いていた石板とチョークをカバンから取り出す。
イリヤの声代わりに使う物だ。あたしの場合は文字も読めないので、更に通訳が必要になるのだけれど。
イリヤはどこか動揺を隠せないまま、そのノートサイズの石板にチョークを走らせる。
クオンが目でその文字を追い、それをあたしに伝えた。
「…逆は、できますかと」
「…逆?」
「その結晶を水に戻すことはできるか、という意味でしょうか」
クオンの解釈に、イリヤはこくこくと頷いて見せた。
その瞳は真剣そのもので。
やる前にできないとは言えなかった。
今さっき漸く自分の意思で結晶化ができたばかりだ。
いきなりその逆を、なんて。できるのだろうか。
でも不思議とできないとは思わなかった。
“結晶化”が有する力の一部である以上、与えたものを取り戻すのは当然の摂理にも思えるから。
持っていたその結晶を、手の平の上で転がす。
やることは違う、だけど根本的には違わないはずだ。
大事なのは、それを扱うあたし自身の意思――
「――!」
瞬後、滴の結晶がぱしゃりと小さな音をたてて液体化した。
結晶の形からもとの海水の形に戻ったのだ。
「で、できたみたい…」
ほっと息を吐きながら、その視線をイリヤに向ける。
だけど今度はイリヤは、今にも泣きそうな顔をしていた。くしゃくしゃに歪められたその表情に、胸が痛むほど。
「……イリヤ?」
さっきからイリヤの様子がなんだか変だ。
ただ力を見せるだけのはずだった。
そしてイリヤの持っている情報を、少しでも引き出せればと。
イリヤにこんな顔をさせる為ではなかったはずだ。
「イリヤ、どうしてそんな顔をするの? 本当は何が知りたかったの…?」
あたしの問いに、イリヤはそっと瞼を伏せて俯く。
それからゆっくりと自分の両手で、あたしの両手を握った。
冷たい手だと思った。
意外と骨ばった、細くて長い指。
あたしはそっと握り返す。
そしておもむろにイリヤはあたしの両手を自分の首元に導いた。
絡めた指を解き自分の首の輪郭をなぞらせるように、添えられるのはあたしの手。
そこには真珠の首飾りが幾重にも巻かれたイリヤの細い首がある。
指先に触れるその感触はさっきの結晶と似ていた。
イリヤはゆっくりと顔を上げ、それから微笑んだ。
はじめて見た時のようにひどく儚げで美しい笑みだった。
その口元が小さく動く。
だけどあたしにはなんて言っているのか分からない。
その声は、あたしには――
『――解放を』
その瞬後。
指先に触れていた感覚が、形を変えた。
視界に上がる水飛沫。
散らばる、透明な水の色。
あたしの手とイリヤの体を濡らしたそれは、肌や布や床に染み込んでいく。
目の前には顕わになったイリヤの、細い首筋。
先ほどまでの首飾りはそこにはもう無く。
ただ口元に笑みを浮かべたまま涙を流すイリヤの姿が、あたしの脳裏にまでくっきりと刻まれていた。
クオンも驚きのままその様子を見つめている。
事態が上手く呑み込めなかった。
どうして、イリヤの首飾りが水に?
だって今までの流れだと、この力が及ぶのは同じ力の元でだけだ。
きっとただの石を液体にすることなんてできない。
同じ力のもとに、結晶化されたものでなければ――
「……トリティアを…知っているの…?」
ほぼ無意識に、そう呟いていた。
頭に沸いた疑問がそのまま口をつく。
イリヤはゆっくりと首を縦に振った。
「……でも」
小さく聞こえてきた声に、あたしもクオンも目を瞠る。
それは紛れもなく、イリヤから聞こえてきた声だった。
少し掠れた、だけどあたしにしか聞こえなかったあの歌声と同じ声。
「ずっと、あなたに会いたかった。あなたのこと、ずっと待っていた――」