アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~

2



―――――――…


 そっと扉を開け中を覗き込む。
 明かりの灯ってない部屋の奥のベッドに、まだイリヤは眠っていた。
 少し躊躇しながら部屋に入り、鍵を閉める。
 夕食時に様子を見に来た時も起きる気配は無かった。もう半日以上このままだ。

 本当に大丈夫なのだろうか。
 あの首飾りの呪いがなんであれ、直接身体に影響のあったものだ。そういう場合は解かれた反動で眠る場合が多いとクオンは言っていた。

 レイズに事情を話し刺青の件はイリヤが目を覚ましてからでいいと了承は得た。
 だけどトリティアの力に関わることはすべては話せず、説明は一時保留になっている。
 誤魔化しはしたくなかったし、だけどイリヤの話も聞く必要があった。
 だからイリヤが目を覚ましたら事情を話せる限りで話すということになったのだ。

「……イリヤ…?」

 枕元でそっと呼びかけてみる。
 だけど何の反応も無い。
 部屋の壁にかけたカンテラの明かりがその輪郭を浮き彫りにする。
 白い頬に長い睫の影が落ち、すっきりと通った鼻筋と形の良い唇。
 こうして見るとやっぱり人形のように綺麗だ。

 小さく息を吐いて、そっと枕元から離れる。
 流石に一緒にベッドに入ることは憚(はばか)られたので、床に毛布を敷いて寝る気でいた、その時だった。

「…ぅ、わ?!」

 突然、腕をひかれる。
 咄嗟の事で受け身も何もできず倒れこんだそこは、柔らかなベッドの上だった。
 視界がぐるりと反転し、重力が体全体に圧し掛かる。
 目の前には天井と、そして――

「い、イリヤ…?!」

 目を覚ましたイリヤの姿があった。
 その姿にほっと安堵するも、状況がおかしい。
 あたしは何故か今、イリヤに組み敷かれているような状況だ。
 握られた腕はその細さから想像もできないほど強い。
 身長はあまり変わらないはずなのに、こうして覆いかぶさられると自分よりひどく大きく感じた。
 寝ぼけているのかと思ったけれど、イリヤは柔らかく微笑んでいた。

「…イリヤ?」
「改めて、マオ。あなたにお礼を言わなくちゃ。もう諦めてたんだ。自由になることは」

 なんだかヘンだ。
 雰囲気というか…様子がおかしい。
 こんな風に、笑う子だった?

「やっと、自由だ。もうボクを縛るものは何もない。ボクは祠には行かない。あんな所、二度と行く気はない。ボクはここから逃げようと思う。その為には人質が必要だ。ボクは何にも持ってないから。あの王国騎士は鋭く賢い。王国騎士にボクの存在がバレてしまった以上、国がどう判断するか分からない。その前にボクは海に帰る。マオ、一緒に来て」

 今この状況を、目の前のイリヤが放つ言葉を、上手く呑み込めない。
 ただ分かるのは。

「……力を…貸してくれるんじゃ、なかったの…」
「約束した覚えはないよ。マオが色欲以外の目的でボクを買ってくれたのは感謝してるけれど、与えられた自由をどうしようかはボクの勝手。そうでしょう?」
「…確かに、何か形でそれを約束したわけじゃないけどっ、誠意の問題じゃないの…?! こちらの望む仕事をしてくれたら、その後はあなたの自由にしたらいい、でも…っ!」
「誠意? それをボクに問うの? お金でボクを買ったあなたが。他の客よりマシだったってだけで、ボクにとっては何も変わらないよ。“これが終わったら”、“いつか”、そんな言葉信用できない。今を置いて逃げるチャンスは無い。こんな幸運はもう二度と。ボクを買ったのがあなたで、そしてあなたには神の力が宿っている。忌まわしい呪いも解けた。あなたとボクの立場は逆転してるんだ」

 どういうこと?
 確かにイリヤはもうあらゆる意味で自由を取り戻したのかもしれない。
 だけどどうしてそれで立場が逆転するのか分からない。
 あたしにだってまだ武器はある。
 そう簡単に言うことを聞くわけにはいかない。

 見下ろす瞳がオレンジに燃えて細められる。
 今目の前にいる人物があの可憐なイリヤだということ自体が信じられなかった。

「ボクの“力”は普通の人や魔導師には全く効かない。だけど唯一効力を発揮する相手…それが海の神々だ。つまりあなたの力はボクには効かない。その前にボクがあなたを支配できるから」
「……どう、いう…こと?」
「ボクはこの海で唯一神々と言葉を交わせる血を持つ者だ。国の歴史に抹消された血族の生き残り。ボク達の一族はシェルスフィア建国より遥か昔から海の神々と親交してきた。だけど建国時の戦争を経て関係は変わり、一族は滅ぼされた」
「――――…!」

 “神の力”が、効かない?
 そんな、そんな相手が居るなんて。
 “契約”も無しに神を従えさせるなんて、そんなことできるの?
 許されるの? 
 そんなことができてしまったら――

「分かったら大人しく来て。信じられないなら試してみても良いよ。だけどボクの歌の効力は、既にあなたが知っているはずだ。声を取り戻した以上、効力は高まってるはず」
「…歌」

 あたしにしか聞こえなかった、あの歌。
 あの歌を聞いていたのはトリティアだ。
 惹かれて心を掴んで離さなかった、あの歌が…海の神々を操るもの…それはきっと、トリティアだけじゃなく――

「…だったらその力、シアの為に使ってもらう」

 絶対にその力は必要だ。
 そしてイリヤの力を絶対にアズールに渡すわけにはいかない。
 シアの敵を増やすわけには。

「…拒否するわけね。だったら実力行使だ」
「――…ッ」

 掴まれた腕に力が篭る。
 痛みで思わず顔を歪め、だけどイリヤと目を合わせたまま、あたしは息を吸い込んだ。
 例えトリティアの力が使えなくても。
 あたしの武器はもう、ひとつじゃない。

「――クオン!」

 叫んだ声に、イリヤがはっと身構える。
 だけどその次の瞬間にはもう。

「……!」

 イリヤのその首筋に、鈍く光る切っ先が向いていた。
 ごくりと目の前でイリヤの喉が鳴り、腕の力が抜けていく。
 すぐそこでイリヤの喉元に剣を突き付けた、クオンの冷たい目がこちらを見下ろしていた。

 来てくれる確信はあったけれど、こんなすぐにだとは思わなかった。
 だけどそうだ、クオンは転移魔法が使えるんだ。
 部屋の鍵なんかクオンにとっては無意味なのだ。

 ほっと胸を撫で下ろすあたしに、クオンが視線だけ向ける。
 何故かそこには不機嫌さと非難の色が混じっている気がした。
 それからクオンは憮然とした態度であたしを睨んだまま、一言口にした。

「遅いです」

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