アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


「良かったわけ、着いていかなくて」
 
 布擦れだけが響いていた静かな部屋に、凛とした、だけど僅かに潜められたイリヤの声が、まっすぐ自分に向けられる。

 目の前に翳(かざ)した光る刀身に映る自分は、自分で思ったよりも表情を残していた。
 その感情が滲んでいたのか、彼――否、一応本人は女を通しているので彼女としておく。彼女、イリヤはひどく不機嫌そうでいて、どこか憮然とした面持ちだった。

 自分の押し込め切れていない殺気にか、マオを連れていかれた焦燥からか。
 だったら自分で動けばいいと思う。そんなにマオが心配なら。
 それは自分の役目ではない。
 自分が心を砕くのは、主(あるじ)である殿下の為だけだ。

「船内であれば、何かあってもすぐ駆けつけられます。これだけの海域で魔の動く気配はそう容易く隠せない。私の方が確実にはやく察知できる。結界も充分に施して…」
「そっちじゃないよ! レイズ、あの船長! こんな夜中に、マオとふたりきりにして…大丈夫かなぁ、マオ。流されちゃったりしてないかなぁ。なんか抜けてるとこあるし…どうしよう朝まで帰ってこなかったら…!」
「…一体何の心配ですか」
「この船の人たちのことはそれなりに信用してるし、マオが大事にされてるのは分かるよ。でもあのレイズはさ、クオンとやり合った時もそうだけど…マオに対するそれと、他のひととは何か違う気がするんだよね」
「…この船に居る以上は、皆仲間であり家族。彼のマオに対する感情がそれを逸してるとは思えませんでしたが」
「うっそ、クオンてそんな鈍いの?! レイズ、マオが居なくなってから殆ど寝てないんだよ?! 港でのあの決闘の後からずっと! 皆が居る時はそんな素振り微塵も見せないけど…近い人から見ると分かるみたいだね。ジャスパーが心配してたもん。ボクはどうでも良いけど」

 マオが不在の1週間の間、イリヤの世話をしていたのは殆どジャスパーだ。
 いつの間にか仲を深めていたらしい。不要な情報ばかりを仕入れてくる。
 その間少しずつ、イリヤの声が出るようになったことは、適当な理由をつけて船員にも明かしてきた。
 隠し通すには無理があったからだ。
 この船で己が役割を全うするには、味方が少なすぎる。

 逆を言えば余計な敵を増やさない為にも、隠し事は極力避け、互いに協力し合う必要があったのだ。
 しかし互いに妥協できない1点。
 それがマオだった。

 マオのヒミツだけは明かせない。自分の判断では。
 殿下の、ひいてはこの国の内情にも関わること。
 だけどレイズも退(ひ)かなかった。

 マオの命にだけは代えられない。
 他人の言葉は信用できない。
 例えマオの頼みでも。

 互いに退けず、だけど諦めるという選択があるわけがなく。
 あの決闘は避けられないものだった。

「…なら余計。心配は要らないでしょう。彼がマオを傷つけるはずがない」

 剣を交えた時。
 彼の感情は分かり易いほどに真っ直ぐ自分へと向かってきた。
 重く鈍くぶつかりあう火花のように、熱く。
 交えたのが剣で良かったと柄にもないことを思う。
 彼に魔法の才がなくて良かったのか惜しかったのか。
 もしも魔法の打ち合いだったなら、どうなっていたか分からない。

 ただ思うのは、あの時の自分には及ばぬものがあの時のレイズには確かにあったということ。
 あんなにもマオを求める気持ちは、自分の中には無いものだ。
 
 それでも。
 約束通り、マオが戻ってきた時。
 心の底から安堵し、息をつくような気持ちがあったことも事実だった。
 不在だった僅か1週間が、あんなにも長く感じるとは自分でも予想外だった。

 もとから居なかった存在だ。そして居なくなる存在だ。
 そんなものに思いを残しても何の意味もないことなど分かっていた。
 陛下との約束を、役割を果たしてくれればそれで良い。
 それだけだったはずなのに。

「…ありえません」
「…クオン…? レイズのこと信用し過ぎじゃない? あんなに気、合わなさそうなのに」


 溜息混じりに零したイリヤの言葉から、自分の言葉の正しい意図は伝わっていなかったと内心ほっとする。思わず零れた呟きは、自分でも制御できていない感情だ。
 ありえなくて良い。感化されただけだ。
 分かり易過ぎるくらいまっすぐな、彼の、レイズの思いに。
 
 剣を磨いていた手を止め、ふと視線がマオの出ていったドアの方に向かう。
 この世界で、船上で、確かに。
 彼女の気配を感じることができた。それなのに。

 視界に居ないだけで何故だか不安が疼く。心配になる。
 あの時離した手を何故かいま。
 惜しく感じる不可解な感情に、ただ戸惑うことしかできなかった。


―――――――…

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