アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
―――――――…
なんとなく、ずっと誰かに、呼ばれている気がしていた。
だけど分かった。はっきりした。
呼ばれていたのは、あたしじゃない。
「……あたしが…シアに、喚(よ)ばれたのは…間違いでも偶然でも、ないのね?」
光の海でトリティアが、少しだけ目を丸めて、それから柔らかく細めて応える。
最初あたしの中に神さまだなんて、何かの間違いだと思っていた。
でも、あたしの中に確かに、トリティアは居た。
だけどその理由は分からなかった。
「…あたし…あたしは…何なの? あたしはただの人間じゃあ…」
『それも、間違いではない。君は君の世界では、ただのひとりの人間だろう。今のままでは。だけど君は、君自身という存在は、この世界では、とても価値のある存在だ。父が…ずっと探していてのだから』
「探していた…?」
『別(わか)つ世界に、共に存在しうる存在。君のその身体は、母より。そしてその魂の一部は、我らが父が分け与えたもの』
呼んでいた。
求められていた。
――あたしじゃない。
マナ。
それは、お母さんの名前。
思い出の中、ずっと海に恋をしていたひと。
『父はずっと、彼女を探して求めている。待っている。心を、力を磨り減らすほどに。すべての海を統べるこの世界の神である父の不調は、この世界に、すべての海に不均衡をもたらす。だからぼくらは父のその願いを叶える為に世界を繋いだ。彼女を探した。そうしてようやく、君の中の父のカケラを見つけた』
思考が追い付かない。
お母さんが…この世界に来たことがあるっていうこと?
あたしみたいに?
それとも…
でも、ムリだよ。もう会えない。会わせてあげられない。
だって、お母さんは、もう――
『だからこそ、ぼくが入り易かった。ぼくの力を容易く扱えるのは、この世界には君しか居ないだろう。だけど長くこの世界を離れていた分、制御も安定せず感情に振り回される。ぼく自身も力が戻りきらなかったから、そこはフォローできなかったけれど…この海でなら、ぼくはぼくの力を取り戻せる』
そんな誇らしく言われても、頭に入ってこない。
とにかくトリティアは、今ようやく自分の目的を果たせつつある。
それがよっぽど嬉しいのだろう、あたしのことなどお構いなしだ。
とにかく…とにかく。
今は自分の出自とかお母さんとかトリティアのお父さんとかこの世界の神さまだとか、壮大な話は置いておく。
一番気になる、はっきりさせておきたいこと。
一番聞き逃せなかったこと。
「…この世界を、奪い返すっていうのは…」
『父が力を取り戻せば、容易だ。すべての発端は人間。この世界の人間はすべて排除する。捕らわれた兄弟も解放する。もう二度と、奪われることのないように』
「…それって…」
『今まさに、人間たちがやろうとしていることだよ。ぼくらからすれば、とても小さなものだけれど』
「……まさか」
『戦争。好きだろう、人間は。だけどひと同士は弱いから、時間がかかる。その時間も惜しい。ぼくらがいっきに片づけてあげよう。忌々しいあの鋼や鉄の大地も、すべて』
――だめ。
そんな、そんなこと…!
「やめて!」
今、シアが、シア達が。必死になってそれを食い止めようとしている。
国を、土地を、そこに住まう大事なひと達を。
守ろうとしているのに。
「やめて、そんなこと…! そんな権利、誰にもあるはずがない。そんなこと…!」
奪う権利は、誰にもない。
例え奪われた哀しみを、憎しみを知っていても。
だから奪っていいなんて、そんなことは決してありえない。
「ゆるさない…!」
凪いでいた光の海が、大きく膨らんで船を揺らした。
浮遊していた光の粒が、視界の片隅のあちこちで、火花のように破裂する。
トリティアがその瞳を大きく見開き、そこにあたしが映っていた。
なんて顔をしているんだろう。
なんてことを、考えているんだろう。
こんなのあたしじゃないみたいだ。
『――君も、人間なんだね、マオ。父が愛したひとの娘。じゃあ君が、挑んでみるかい? 我らが父に』
そう言ったトリティアが、ふわりとその輪郭を揺らす。
荒れていた光の海はいつの間にかまた凪いで、少しずつ本来の海の色に戻っていた。
現実の世界が時間を、色を取り戻そうとしている。
『君の力は確かに、ぼくらと同じ力。ぼくらは父の同じ場所から魂を分けた、近い存在。ひとを救うのか、裁くのか。君の答えをぼくらにみせて。それまでは待っていてあげる。ぼくらは同胞を何よりも愛しているから』
言ってそっと距離を詰めたトリティアが、あたしの額に唇を寄せる。
拍子抜けしたあたしは黙ってそれを受け容れて、触れるほどに近づいたトリティアを真正面から見つめた。
だけどその身体は薄く海に透けて見えた。
『君に、加護を。ひとに奪われるのだけはゆるさない。強くなりなさい、マオ。君の力はその身体(からだ)では不完全だ。ぼくの力をまだしばらくは媒体にしていい。君の力を、ぼくらに示して』
その凛とした声音のさいごが、さざなみに溶けるように淡く震えて消えた。
トリティアがこの場から居なくなろうとしていることが分かった。
「待って、トリティア、まだ聞きたいことが…!」
とっさに、手を伸ばす。
だけどその輪郭は掴めない。
もう一度名前を呼ぼうと見上げたその向こうには、怪訝そうな顔をしたレイズがあたしを見下ろしていた。