アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~

3



 何もないと思っていた掴んだ右手の先には、レイズの服の裾。
 驚きに見開かれる藍色の瞳。
 波がゆっくりと、船を揺らしていた。

「……マオ? どうした?」
「レ、イズ…」

 自分を覗き込むレイズの大きな影に、自分の体はすっぽりと収まっていた。
 その背に広がる星屑よりも、レイズの瞳(め)の光のほうがよほど強く煌めいている気がした。
 そうだ、どこか少し、トリティアに似ている。雰囲気はぜんぜん違うけれど。

「マオ」

 再び強く名前を呼ばれて、はっと肩を揺らす。
 ようやく焦点が目の前のレイズだけに定まる。
 レイズの視線が更に強くなる。

 戻ってきたのだ。トリティアに半ば無理やり連れて行かれていた、あの場所から。
 あそこは何なのか。トリティアが見せていただけの幻なのか。それともここの、もうひとつの姿なのか。

 分かるのは、現実(ここ)とは異なる異質な場所であるということ。
 なのに自分にとってそれは、何の違和感も恐怖もなく、むしろどこか心地良ささえおぼえていた。
 そんな自分がこわかった。
 以前どこかでも同じような感覚を味わった気がするけれど、それは思い出せない。

「ごめん、ちょっと…立ちくらみ」

 小さな嘘で誤魔化すように視線を逸らすと、レイズの服の裾を掴んだままだった自分の右手が映る。
 それを外そうと、解こうとするのに、上手く手に力が入らなかった。

「…ごめん、レイズ…」

 力が、はいらない。震えるだけ。
 強くなれと言われたばかりなのに。
 どうして。

 いくつもの疑問が、許容しきれない情報が、たったひとつの真実が。
 ぽつりと浮かぶ。真っ暗な海の中みたいな心の中に。

 あたしじゃなかった。
 必要とされていたのも、呼ばれていた気がしたのも。

 震える。波紋のように広がる。
 考えるな。今は考えない方が良い。ただでさえ混乱しているのだから。

 トリティアは、シアの召喚を利用していただけだ。何故かそれが容易に分かった。
 トリティアは、あたしの体を利用しているだけ。
 自分の目的の為、こちら側の世界に残る必要があったから。
 
 シアが必要なのは、トリティアの力。分かっていたことだ。
 でも、シアは。
 あたしが何者かも分からないのに、シアは。
 必要だって言ってくれた。
 嬉しかった。
 でも、じゃあ。

 シアが本当に、必要なのは――?
 シアに、本当に必要なのは…?

「…マオ。おい、マオ」

 哀しい。くるしい。
 シアに会いたい。何を訊きたいのか、確認したいのかも分からないのに。
 だけどたぶん。言ってもらいたい言葉だけは、分かっていた。
 ずっと、ずっと。

「マオ、俺を見ろ!」
「―――…!」

 痛いくらいに強く、両頬を大きな手で挟まれて、ムリヤリに顔を上げさせられる。
 その声音に、困惑を隠せないレイズの焦る瞳に、瞬いた分だけ涙が零れた。
 そしたらもう、視界に映るものすべてが涙で滲んで、溺れて、流されて。
 何も見えなくなる。
 掴まれた頬が熱くて痛い。
 レイズの吐息が熱くて近い。
 それだけは感じた。

「…レイズ、あたし…」
「他の男のことで泣く前に、目の前の俺を見ろ。泣いてたら怒るに怒れねぇだろうか。どれだけ心配したと思ってるんだ」

 まっすぐ。降ってくる言葉はあたしに向けられる。
 強い視線と共に、あたししか見ないで、あたしだけに伝わるように、逃がさないように。
 どうして、と言葉になる前に、その綺麗な顔が更に近づいて、赤い舌がちらりと覗いた。
 あ、と思った時にはもう。
 止める間もなく、その濡れた感触があたしの目元の雫を拭って、びっくりして肩を竦めることすら許さないよう反対側も同じように舐められた。

「レイ、んぐ」

 抗議の言葉ごと、押し込められる。
 触れて絡まる塩辛い舌先。
 レイズのキス。もうするなって言ったのに。
 だけど思わず涙もひっこんだ。

 ぐ、と。いつの間にかあたしの手はレイズの服の裾から場所を変えて、レイズの胸元を強く握っていた。
 心臓の上。どくどくと、鼓動を感じる。
 罰のつもりなのか、それとも慰めなのか。離してくれる気配はない。
 その証拠に唇の端にわざと隙間を作っては、あたしに呼吸を促す。力では敵わないし苦しいし、あたしは従うより術はない。
 悔しいことに、疲れた体と心とも、今ぜんぶ、レイズに預けてしまっている。
 たぶんレイズが、そうさせた。

 服の隙間から覗く呪(まじない)の青。
 そういえばレイズの瞳の色とよく似ている。
 瞬きすらしないレイズの瞳は痛いくらいに真っ直ぐで、苦しいくらいで。
 なのに逸らせない。おそらく罪悪感から。

 さっきとは違う意味での涙が一粒だけ、零れた。
 その透明な涙の雫が、レイズの指先を伝って自分の口に戻ってきた。

「……!」

 そしてあたしとレイズの舌先で、ひとつの結晶になった。

「…なんだ、これ」

 その結晶を掬い取ったのはレイズの舌だった。
 ようやく離した唇を拭いながら、舌先に乗った結晶を指先で摘まむ。
 そういえばレイズはこれを見るのは初めてだ。
 意図せずして顕現するそれは、あたしの不安定な力の現れ。結晶化の能力(ちから)。

「…ごめん、その…あたしの、力の不備というか…」

 レイズが翳すそれは、あたしの未熟の現れなのだ。
 それを今目の前に見せつけられた気がして、恥ずかしかった。
 
「もっと分かりやすく言え。お前がやったってことか? これ」
「う、その…まぁ、そうなんだけど…本当は涙を結晶化する為なんかじゃなくて、もっと実用的な力なんだよ、剣とか鎖とか…!」

 言い訳がましく言ってみるけど、それすらも安定して作れるわけでもない。
 それにトリティアの言っていたことが本当なら、今はまだトリティアの力を借りてるに過ぎない。
 つくづく今の自分は、中途半端なのだ。
 
「お前の涙なのか、これ」
「…そこは、もういいから。返し…」

 いたたまれなくなって取り返そうとした、その時。
 レイズが摘まんでいた結晶を、おもむろに自分の舌先に乗せ。

「…レ、」

 そのまま呑みこんだ。
 あたしの目の前で。
 むしろ見せつけるように。
 ごくりとあたしの眼前で、レイズが喉を鳴らす。

「い、やーーー! 何やってんの! 何呑んじゃってるの、バカじゃないの!!?」
「うるせぇぞ、皆休んでんだ、でかい声出すな」
「だってレイズが! な、なん、やだ、なんとなくやだ、吐いて今すぐ!」

 思わずその口元に手を伸ばすも、あっさりと逆に掴まれる。
 それから喚く口を再び塞がれた。
 今度は遠慮なく抵抗して暴れる。
 結局敵わないのだけれど。

 こんな時なのになぜかあたしは、レイズとの出会いを思い出していた。
 そういえば最初もこんなカンジだった。
 この世界の海で一番最初に出会ったのは、レイズだった。
 この船で出会って、仲間にしてくれて。

 いつか別れると告げたあたしに、どこにだって会いに行くって。
 言ってくれた。
 海の果てでも、世界の境界なんてでも、まるで関係ないように。

 この世界はもう、あたしの世界でもある。


「…今度は何の涙だよ」

 唇の温度を残したまま、その舌先がまたあたしの目元を拭う。
 そのまま今度はきつく抱き締められる。
 涙がその胸の青に吸い込まれていく。

 
 この世界を守りたい。
 心から、そう思った。

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