アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
薄暗いこの部屋を、心地良いと少女は言った
海の底に居るみたい。だけどこんな深く深くまでは来たことない。
太陽の光も月の明かりも届かない、こんな深くまで。
いくつも浮かぶ小さな泡を、指先でつついてじゃれては、年相応の無邪気な笑みを見せる
ぼくの罪悪をそっと拭うように
大丈夫。さみしくなんかない。
あなたが居てくれるから。
―――――――…
「――リズの様子が?」
「はい。リズ様の、というより…地下の部屋の様子が、妙なのです。このような事態の時に申し訳ありません、ですが今はリズ様の異変は見過ごしておけない時ですので…」
神妙そうな顔つきで、リシュカが顔を曇らせてそう報告する。
リシュカの意見はだいたい正しい。リズの異変は今目の前のことより、優先すべき案件だろう。
まったく、ほんとうに次から次へと。
だけど今はこの忙しさに気が紛れる。
紛らわせてなどいけないことは百も承知だが、一時くらいの逃避は許して欲しい。
応接の間には敵国の姫君。
事前の連絡も通達も許可もなく、夜半の突然の訪問。供は最小限のみ。
時間も時間なので、用件は明日聞くと伝えた。客間だけは用意すると。
時間を稼ぐ意味でもすぐに会うつもりはなかった。
それに、この姿では会えない。呪いを封じる為の反動、無力なこどもの姿。
一時解くにせよまた施すにせよ、リシュカやリズ、それに自分にも負担が大きい。
今それは、なるべく避けたい。
だが相手も譲らなかった。
国王陛下に面通りが叶うまで、朝までここから動くつもりはないとそう言い放ったと言う。
噂に違わぬ豪気な姫だ。
「先にそっちへ向かう」
「…良いのですか。シルビア様は…」
「朝まで待つと言い捨てたんだ、それに比べたらもう少しくらい待てるだろう」
嫌味のように吐き捨てて、地下の扉へと足を向ける。
今この国を護っているのはリズの力が殆どだ。今リズに何かあったらこの国は保(も)たないだろう。
リズを失うわけにはいかない。
この国の、最後の砦。
改めて思うと、なんとも複雑。
じゃあおれは、一体なんなんだ。
名ばかりの王。
誰かを犠牲にしてばかりの、無力な国王。
大事な誰かすら、ひとりすら、この手で守れない。
ぐ、と。首元のそれを握りしめる。
マオの結晶。首から下げたそれは、肌に触れるだけで温もりを強くした。
何度、離れても。彼女は戻ってきてくれた。
この世界へ――おれの元へ。
異なる世界の無力だった少女。
巻き込んだのはおれだ。
だからせめて、マオだけは。
『――はやかったじゃないか。今忙しいだろうに、ご苦労なことだね』
リズの嫌味に苦笑いを返す。
リズはこの城のことはその殆どを把握している。文字通りすべてが視えるのだ。
状況の説明が要らないのは有難いが、良いことも悪いこともすべてお見通しなのは居心地が悪い。
この城への異変はすべて真っ先に、リズが察知してくれる。
この城の外のことは一切視れない代わりに、この城のすべてが。
だからこそ、マオ達が心配していたようなことはあり得ない。
シエルがこの国、ひいてはこの城に足を踏み入れることなど。
「…確かに、不安定だな。不調なのか、リズ」
部屋全体の空気が重い。ぴりぴとと肌に纏わりつくそれに眉を顰(ひそ)める。
いつもこの部屋いっぱいに満ちているリズの気が、制御を失った小魚のように、あちらこちらでぶつかって弾けていた。
なんだか嫌な予感がする。
本能的に感じる。身の危険を。
『そろそろ時期が来ただけさ』
「……時期?」
リズの様子が、おかしい。
いつも自信と力に溢れたその瞳が、今日は全くこちらを見ない。
弱っている、というのとは何か違う。それが何かは分からない。
分かるのはただ。
異常事態だ。
おれ自身に流れる血が、誰よりもそれを感じていた。
『すこし、昔話をしようじゃないか』
「…リズ…?」
空気が大きく揺れたかと思うと、目の前の光景が色を変えた。
広がる広大な海。リズの見せている幻だ。
リシュカとふたり、息を呑む。
『アタシにはむかし、“親友”と呼べる友が居た。性格はまるで正反対、最初は気も合わなかったし、アタシははじめ、あの子がキライでね。いつもケンカしていた』
映し出されるひとりの少女。
船上だろうか、背景は青い海。
あまりシェルスフィアでは見ない恰好だった。
だけどそれと良く似た格好を、誰かがしていた。
誰が――
『自分より相手を気遣うようなお節介でね。アタシのことを誰よりも心配してくれた。…余計なお世話だって言っても、きかないんだあの子は』
初めてだった。リズのそんな声を聞いたのは。
そうさせたのは、間違いなくこの少女。
屈託なく笑うそれは、おそらくかつてリズに向けられたものだろう。
笑顔だけではない。
怒った顔。泣いた顔。
リズの記憶が鮮明に引き出され、映し出される。まるでリズの心の内のように。
その少女を背に、リズがこちらを見据えるように向き直る。燃えるように赤い瞳。
『アタシらが万能だと思うかい? シェルスフィア・シ・アン・ジェイド』
「…どういうことだ?」
『アタシらにも力の底はくる。新しい力を得られない限り、待つのは亡びのみ。そうしたのはアンタ達だ。シェルスフィアの末裔よ』
「……どういう、ことだ」
『本当の名と自由を奪われ、ここに縛り付けられ。アタシの力はすべてこの国の為だけに使われてきた。ただ、消費されてきた。“アタシ”を知らない人間から、アタシが力を得る術はない。アタシへの信仰はこの世界のどこにもない。アタシの力はもう尽きる。この国と共に。それがこの国の運命(さだめ)なのさ』
みしり、と。
空気にひびがはいるのを感じる。リシュカが咄嗟にその背に自分を庇った。
どくどくと、血が騒ぐ。この血に継いだ、リズとの契約が。
千切れようとしている。おれの内から。
『…さいしょは。それでも良いかと思っていた。血の契約は、アタシには切れない。今までの王族はともかく、アンタのことはキライじゃなかったからね。…でも』
景色が歪む。
海が、少女の笑顔が、大きく崩れる。音をたてて。
その向こうに揺れる人影。
思わず目を疑う。
まさか、この場所に入れる人間は限られている。
『あの子ともう一度会おうと交わしたあの約束を、アタシはどうしても果たしたいのさ。この命が尽きる前に』
そこに。
居るはずのない人物が居た。
心臓が、鼓動が。
痛いほどに暴れていた。
「――シエル……!」