アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
お風呂にはいるというイリヤを置いて、日が暮れてもまだなお戻ってこないマオの様子を見に部屋へ行くと、居るはずの本人の姿が見当たらない。
そこでようやく、刺青の作業が船長室で行われていたことを思い出し、隣りの船長室へと足を向ける。
扉は薄く開けられて、中から灯りが漏れていた。
声は聞こえない。気配からおそらく、ひとりではない。レイズも一緒なのだろう。
普段から気配を消すくせのある自分の存在に、中の人物が気付いていたかは分からない。
自分でも分からない。声もかけずに、そっと覗き込んだその理由。
室内に居たのはやはりマオとレイズのふたりだった。
部屋の奥、ベッドの上。レイズの膝に頭を預けて横になっているマオの姿が一番に目に飛び込んできた。
意識はないのか…おそらく眠っているのだろう。
この時間まで刺青をいれる作業をしていたのなら当然だ。
その行為にどれほど自分の力を注いでいるのか、おそらく本人は意識も自覚もないのだろう。
結晶化の力も使った後だ。気力も体力もひどく消費しているはず。
やはりもっとちゃんと傍で自分が、見張っておくべきだった。
レイズになど任せずに、ちゃんと自分が。
じり、と胸が焦がれるその不快な感情に気付いて、思わず自分で口元を覆う。
何を。今何を思ったんだ、自分は。
確かに魔法と魔力とついでに剣の使い方の指南役を、ジェイド様から仰せつかった。
マオを見張るのは自分の仕事の内でもある。
だけど今のは、まるで。
それにレイズを含めてこの船の船員達にはある一定以上の信頼を置いている。
レイズのマオに対する行為には思うところもあるが、任せられない相手ではない。
彼には魔力は殆どないようだが、それを補ってあまりある、それ以上のものを持っている。
少なくともこの船の上で、彼に敵う者はいないだろう。
それは自分には無いものだと、持ちえないものだと、本能的にそう感じていた。
だからだろうか。彼が、気に喰わないのは。
無意識にか、ふたりの姿から目を逸らす自分が居た。
――『マオにここに、居てほしくないの』
昼間投げかけられた、イリヤの言葉が甦る。答えられなかった、その問い。
死んでほしいわけではない。
犠牲になどしていいわけがない。
だけど、自分は一度。
再び視線をふたりへと向ける。
僅かに距離があるので、すべてが見えるわけではない。
ただ、マオに触れるその手が、レイズの心そのものに見えた。
ふとその手が、マオの存在を確かめるように、体の輪郭をなぞる。
頬から首筋、胸元、線の細い肢体へ。
触れるだけだったそれが、徐々に確かに熱を帯びているように感じた。
僅かに目を瞠る。ぐ、と。
知らず握っていた拳。
いくつも装飾品をつけたレイズのその手が、マオの服の隙間から隠れていた肌へ触れた時。
レイズがこちらを見た。
僅かに開いたドアの隙間、はっきりと自分の方を。
挑発するような、深い影のある藍色の瞳。
真っ向から受けて、見つめ返す。
一歩、室内へと足を踏み入れながら。
自分は今どんな顔をしているのか。
レイズが煽るように笑った。
「隠れてねぇぞ、殺気」
「……何をしているんです」
「確認していただけだ」
「…意識のない女性へする行為とは思えませんね」
「ここは俺の部屋で、ここは俺のベッドの上だ。そこに寝ている女をどうしようと、俺の勝手だ」
その物言いが、何故かわからずとも、癇に触れた。
女、確かにレイズはそう言った。
他の船員の前では、家族だなんだとマオをまるで子ども扱いする様子を散々見せつけておいて。
確かにそう言ったのだ。
自分への当てつけや挑発の為だけでなく。
本心で、そう思っていると。
マオを抱けると、自分に宣言したのだ。
「…その手を、離して頂きたい」
「嫌だね。おまえの言うことをきく理由がない」
「私はある方よりマオを任されている身です。マオの身、ひいては貞操を護る義務がある。今がその時でなく、何時だというのですか」
言葉を吐きながら、無意識に帯刀していた剣の鞘へと手が伸びていた。
出航前、港でのレイズとの決闘が思い出された。
あの時より冷静だ。一度剣を交えた相手。二度と退きはしない。
「容赦、しませんよ」
あの時も確か、同じ台詞を吐いた気がする。
「…いい瞳(め)だ、今度はちゃんと、おまえの本心だな」
レイズは再び煽るようににやりと笑って、マオの肌からその手を退(ど)ける。
それから敵意を向けている相手にどうどうと背を向け、マオを抱き上げたあと再びベッドの奥へと寝かせた。
最後まで惜しむようにマオに触れていたその手が、ベッド脇に立てかけられていた剣へと伸びるのを確認して、自分も剣を抜く。
「あの日の決着が、まだだったな、そういえば」
「望むところです。その代わり――私が勝ったら、二度とマオに触れないで頂きます」
「は、誰を相手に言ってんだ。そんな口先、守る必要もない。俺は海賊だぞ。欲しいと思ったものは、奪ってでも手に入れる」
認めたな、と。そう思った。
既に冷静さを欠いた頭の片隅。
マオが欲しいと、そう言った。
きっとまたこの男は、マオに無遠慮に触れるのだろう。
ざわりと心臓を撫でつける、見知らぬ炎。
見据えた先でなおレイズは、挑戦的な笑みを浮かべたまま。
認めよう。自分も。
引き返せない。ここまで来ては。
気に喰わない。
この男が。
「渡しません。あなたには」
認めよう。
――大事だと。
任されたからだとか、自分の役割だとか、義務だとか。
今この場においてはすべて邪魔だ。鬱陶しい。
これではこの目の前の男には敵わない。
「上等だ」
この時のことは、きっとこの先何度でも、思い起こすだろう。
生涯において、初めて。
君主の命を蔑(ないがし)ろにした瞬間だった。