アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
すぐ近くで、マオのその瞳が揺れていた。
零れそうなくらい大きく見開かれた瞳。
そこにはおよそ自分では想像もできなかったような顔をした男が映っていた。
マオが戸惑いながら、自分の言葉の意図を探ろうと考えているのが見てとれる。
今この瞬間だけは、自分のことを。
片目の視力はむかし失った。それが今は惜しいと思う。
「…私にも」
言って、詰めていた隊服のボタンを外しシャツの前を広げて、肌を露出する。
それからその細い手首をとって、触れさせた。
びくりと体を震わせて、だけどされるがままに肌に触れる。振り払うことをマオはしない。
「描いてください、刺青。マオ、貴女の加護を」
失うわけにはいかない。
殿下にとってマオの存在の大きさは、おそらく自分が想像する以上だろう。
レイズにとっても、イリヤにとっても、そして自分にとっても。
マオはもとの世界に帰す。必ず生きて。
「…なんか、その言い方だと…あたしが死ににいくみたいだよ」
ぎゅ、と。心臓の上で拳が震えた。
小さな苦笑いと、杞憂をわらうような瞳が自分を見据える。
マオにその気がないなら、それで良いのだ。
ただ自分の気持ちを、伝えておこうと思っただけだ。決して邪魔のはいらない、それは今しかないような気がしただけだ。
「…そうですね。でも。言っておかないとマオは、すぐ忘れますから」
「その言い方、シアみたい」
そう言ってようやく笑ったその顔は、おそらく。
決して自分に向けられることはないのだろう。
それからマオはそっと自分の胸を押し、少し退くように促す。
するりと腕の中から出て、近くのテーブルに置いてあったお椀を持ち、また帰ってきた。
「これ、固まっちゃったの…溶かせる?」
差し出されたそれは、刺青用の顔料。
こくりと頷いて、翳した手の下でお椀の中の顔料が液体になった。
そのお椀の中に、マオが指先を浸す。人差し指と中指。
再び今度はマオの意思で、自分の露出した肌に触れた。
位置を確かめるように、肌を滑る指先。
思わず僅かに体が反応するも、努めて顔には出さない。
真剣なその瞳には、強い光。
強い力を感じる。
これがマオの、神の力の片鱗。
「…正直言うとね。おかしいかもしれないけど、今は…この世界の方が、大事なの。あたしにとって」
ぴたりと。顔料を纏った濡れた指先が、定められた位置に宛がわれる。
見逃さないよう、聞き逃さないよう研ぎ澄ます。
「だけど、どっちの方が、とかじゃないって分かってる。どっちも大事。だから」
ゆっくりと、顔料を塗りつけながら、象られるその心。
触れた部分がじわりと熱を帯びるのを感じた。
初めての、熱。
対処の仕方など分かるわけない。
「大丈夫、死なないよ。だってクオンが守ってくれるんでしょ?」
「ええ、必ず」
それだけは誓えた。
この命は我が主――ジェイド様に。
だけど。この、心は。
即答した自分に、マオは少し呆れたような、苦笑い。その瞳が濡れて揺れる。
少しでも心の糧になると良い。
いつか本当に、その選択を迫られた時――少しでも思い出してもらえるように。
指先に篭る熱。最後の紋様を固く結ぶ。
その力と誓いを以て、この心臓に刻まれていく、彼女の心の証。
「あ、シーツに垂れちゃった、怒られるかな、レイ――」
その名前を感じ取って、気が付くと右手でマオの唇を塞いでいた。
瞬かれる瞳。自分でも咄嗟の反応だった。
その名前を呼んだら――邪魔される。結界が解かれる。本能的にそう感じたのだ。
「…クオン?」
不思議そうに、手の平の下でその唇が、自分の名前を呼ぶ。
触れている吐息とその感触。
無意識に、吸い寄せられるように。
顔が近づいていく。距離が埋まっていく。
彼女が…この世界で最後に名前を呼ぶのは、誰だろう。
そんな考えても仕方のないことを考えていた。
そしてそれは、自分ではないのだろう。
それだけは分かった。