アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
あたしの呼びかけに応えたトリティアが、その姿を顕(あら)わにする。
呼べば応えることを、あたしはきっと分かっていた。
トリティアはいつものように薄く笑ってあたしに向けていた視線を、リュウの傍らへと向けた。
『……きみか、セレス』
ぽつりと、呟くその言葉にひかれるように、リュウの傍に今まで見えなかった存在が姿を現す。
目を瞠るほど美しい女性の姿。
流れるように長い髪を揺蕩(たゆた)わせて、魚の鱗のような装飾がついた手足が印象的だった。
ぴったりとリュウに寄り添ってほほ笑んだまま、トリティアと向かい合う。
『お久しぶりね、トリティア様』
『きみは人間嫌いだったと記憶していたけれど…随分丸くなったものだね』
『ええ、人間は嫌い。みんな、愚かなんですもの。でもリュウは好き。彼は賢く力もある。何より美しい』
空気を揺らすような、次元が違う場所での声を聞いてるような、神々の会話。
トリティアの姿を確認したリュウがその手をイリヤに翳す。その途端に咳き込んだイリヤが地面に蹲った。
「昔話はそれくらいにして、トリティア。門を開けてもらおうか。アトラスをここへ喚(よ)ぶ」
セレスと話していたトリティアが、その目をリュウへと向ける。
トリティアは今まで見た中で一番その姿が、輪郭が、はっきりとしていた。
この場所のせいだろうか。
だからこそ、その瞳に。
敵意が滲むのをはっきりと感じる。
それはおそらくリュウもだろう。
『…勘違いしないでもらおうか。人間』
その一声で、一睨みで。空気が凍てつく。
リュウの傍に居たセレスが『やだやだこわーい』とリュウの背中にひっこんだ。
目に見えない冷気が刃となって突き刺すように、この場所いっぱいにトリティアの殺気が湧き出ていた。
思わず自分の腕をぎゅっと抱く。
『ぼくが話しをするのは、マオだけだ』
「……」
リュウが僅かに思案し、沈黙する。
下手に相手をしない方が良いと踏んだのか、その視線をあたしに向けた。
「だ、そうだ。マオ、彼に命令を」
「そ、そんなの…したことない…命令なんて」
「できるはずだ。そういう契約を、結んだはずだ」
トリティアに助けを求めたことはある。トリティアはそれに応えてくれた。
だけどこんな一方的に、トリティアに力を使うことを命令するだなんて、そんなこと考えたこともなかった。
「できないのなら、また繰り返すだけだ」
ひどく冷たい瞳をしたリュウが、再びその手を翳す。
座り込んだままのイリヤがびくりと恐怖で体を揺らした。
頭が痛い。眩暈がする。
ぎゅっと閉じた瞼の向こう。
ジャスパーの顔。イリヤの顔。レイズと、クオンと、それから船のみんな。…シア。
瞼を持ち上げて、目の前にいるトリティアを見つめた。
こうして話すのは、あの幻の海で以来だ。
今なら分かる。
あの海は、もうこの世界のどこにも存在しないのだろう。きっとトリティアの中にだけある、望郷の海。
トリティアが見つめ返す。
リュウへの態度が嘘のように、あたしには優しく笑いかけてくれた。こんな時に。
「……トリティア。門を、開けれるの…?」
『できるよ、マオ。それは古(いにしえ)よりぼくの役目だからね』
きっとこの状況もこの空気も、トリティアには何の関係もないものとして、気に留める必要もないのだろう。
トリティアからしたら、小さな存在、人間同士の無益な争い。
でも。
「…開けて。後はあたしがどうにかする」
『…いいよ、マオ。きみが答えを見つけたのなら、ぼくはきみに、力を貸してあげる』
トリティアは微笑んで、そっとその手を泉に翳す。
そこにはいつの間にか大きな杖。先端に青い石がついていて、その青はあたしの生み出す不格好な結晶の色と似ている気がした。
『共に求め合うのなら。その身を捧げよ。ここは、はじまりと終わりの場所』
トリティアの翳した石が強い光を放った。
それに呼応するように、泉が眩い光を放つ。
波打つ泉の水。広がる波紋が、その中央にいるジャスパーの体を攫うかのように大きく揺れた。
祠にとまった白いカラスが、その様子をじっと見据えていた。
泉の中央に光の柱が経つ。
神々の力。光の柱――
「来い、アトラス! 俺がその力を使ってやるぜ…!」
泉の傍でアールが仰ぐように両手を掲げる。
だけど光が射しているいるのはあくまで泉だ。
そこに居るのはアールではない。
ジャスパーが、ぎゅっと目を瞑った。耐えるように。
そして次の瞬間、すべてを吹き飛ばすような突風と共に現れた、巨大な影。
「…来たか、アトラス…!」