アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
その瞳に歓喜の色を浮かべたアールが呟く。
そこに現したその姿は、その場にいる全員の目に等しく映っていた。
セレスやトリティアよりも数倍ある体躯。
燃えるように赤い髪とマントを纏い、口髭をあつらえた強面の男性の姿。
その手には大きな槍のようなものを携えている。
アトラス。
海の戦神。
「供物は用意してある! 俺と契約をしろアトラス! この海で好きなだけ暴れさせてやるぞ…!」
興奮を抑えられぬのか大声で、はしゃぐ子どものようにアールは目を輝かせて叫んだ。
アトラスのその瞳が泉の真ん中にいるジャスパーを見、それからアールを見た。
その口が、ゆっくりと動く。
――……
「…? 何? なんて言ってんだ? リュウ、その女に通訳させろ!」
もどかしいように叫んだアールが、イリヤを振り返る。
その場で、アトラスの言葉を聞き取れていなかったのはアールと…それからジャスパーだけだった。
それ以外の全員が、アトラスの言葉を正しく受け止める。
――思いあがりを正せぬ愚かな人間。望み通り好きに、使ってやろう。
その声音は氷のように冷たく、そして怒りに沸騰するように熱く、えぐるような破壊と暴力をこの場に生み出すはじまりの言葉だった。
ぴり、と。小さな火花がひとつ散る。
それはやがてあちこちで、無数に弾け散った。
空間を埋め尽くすように。
その矛先は、おそらくアールやリュウが予想していたものとは別の結末。
己自身へとかえってくるそれに、先に気づいたのはリュウ。
力を欲しておきながら、身代わりの供物という神への冒涜を、アトラスは許さない。
リュウが咄嗟に剣を抜き、アールを背に庇う。
だけどアトラスの吐息ひとつであっさりと吹き飛ばされた。
セレスの光がリュウを護る。
それでもその力の差は歴然だ。
リュウは小さく呻いて起き上がれない。
「…っ、ジャスパー!」
得体の知れぬ予感に、咄嗟に走り出して泉の真ん中にいるジャスパーへと駆け寄る。
水飛沫を上げもがきながら辿り着き、その小さな体を抱き締めて頭上のアトラスを睨みつけた。
――ほう、随分珍しいものが混じっておる。
『その子には手を出さない方が良いよ、アトラス』
――なんだトリティア、これは。記憶にないぞ、このような同胞は。
『当たり前だ。この子が生まれたのは、ごく最近。我らの海より生まれ、そして異なる世界で孵ったまだ小さな粟粒のようなもの。だけど確かにその魂は、我らの父が分け与えたもの。マオ、彼女は我らの末の妹だ』
淡々と説明するトリティアを、アトラスが豪快に笑い飛ばした。
それだけで吹き飛ばされそうになる。笑い声がまるで衝撃波のように。
――父上の最後の未練の粒か! これが! お前らが必死に探していたもの…! よもやこのような時に見つかるとは…!
それはまるで小馬鹿にでもするように、空気をビリビリと揺らしながら、その瞳がひたりとあたしを見据える。
何を言っているのかは分からない。
だけど、分かる。トリティアとは全然違う。
あたしはこのアトラスに、同胞などと思われてはいない。
――これも運命か。この海がそれを望んでいるのか。良いだろう、マオ。その半分を、大地に持つ者。このおれを、とめてみろ。
言ったアトラスが、その手に持っていた槍を掲げ、大きく振りかぶる。
その先に居るのはアールだ。状況についていけずただ放心状態のアールが、ようやく自分の身の危険を理解するも、既に遅かった。
落ちる閃光、稲光。
アールの顔は、もう見えない。
蒼い光に貫かれる。
「アール…!」
リュウが小さく叫んだ。
あたしはぎゅっと、腕の中のジャスパーを抱き締める。
目を逸らさないようにするだけでせいいっぱいだった。
目の前の光景が、まるで別の世界のことのよう。
現実ではない、まるでそれは。
古の神話の世界――
薄煙の中、アールがむくりと立ち上がった。
無事だった…?
そんなことはあり得ないと分かっていて。
だけどそう簡単に認められないのだ。
受け止められないのだ。
目の前の現実を。
そこに居るのはもう、アールではない。
治まりきらずに漏れ出すアトラスの膨大な気。魔力の渦。
『――なるほど、確かに体は頑丈なようだ。器との相性は良い。これでおれは、この世界と繋がった。お望み通り久々に、暴れてやろうではないか』