妄想は甘くない
漸く幾らか落ち着き、長い息を吐き出した。
腕時計を見つめると、12時半を回ってしまっている。
周囲を窺いつつも個室を出るが、地下のトイレには特に人は現れず胸を撫で下ろした。
そもそも更衣室にしたって遠いからと、朝夕以外は皆そうそう寄り付かないのだ。
弁当の持ち込みを許容している食堂や休憩室が別に有り、土曜日なんて殊更人が来ないことを大神さんも知っていたに違いない。
恐る恐る鏡を覗くと余りにも酷い形をしているので、顔面蒼白でティッシュを濡らして試行錯誤をしてみる。
午後までには顔を整えないと、業務に戻れない。
どうにか最低限化粧崩れを修正して、とぼとぼと廊下を歩いた。
警戒しつつエレベーターへと近寄るが、さすがに大神さんの姿はなかった。
此処は、彼と初めて言葉を交わした場所だ。
全くもって、そんな素敵な人ではなかった彼を思うと、今はあの日を思い起こす気分にすらならなかった。
思い出が汚されて上書きされてしまったようにすら感じられ、どちらも彼に起因するにもかかわらず、憎らしいとさえ過ぎった。
席へ着くと次第に頭が冷え、営業さんの顔を傷付けてしまったという罪悪感を付き纏わせながら、何とか仕事をやり遂げた。