妄想は甘くない

「小説、本当に読ませてよ。興味あるんだけど」
「……もう、書いてない……」

「なんで? 書いていいって言ったじゃん」
「……そう言われても、本人にバレてるのに続けられる程、図太くないんだよね……」

話題がとんでもない方向へ飛び火して、焦って右手を引っ込めようとしたが放してくれる気配はない。

「ちゃんと終わらせてよ。読んでる人も居るんでしょ?」
「……じゃあ、完結したら」

至近距離で鋭く光った目線にたじろぎ、そろそろ集まり始めた視線にも耐え切れず要求を呑んでしまう。
漸く身体が離れると急に冷静さが戻って、こんな約束をしてしまうなんて迂闊にも程があると我に返った。
元々強くもないのに久々の飲酒で回りが早いのかも知れないと危機を抱き、ひとまず場を逃れようと立ち上がる。

「ちょっと、回って来たかも。少し外の空気吸って来る」

廊下の絨毯を踏み締め、手洗い場で冷たい水を指の間に流すと、残った水滴で頬を濡らして酔いを醒まそうと試みた。
顔を軽く扇ぎつつも席へ戻ると、不意にふわりと立ち上った大好きな香りに、視線を彷徨わせる。

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