鬼の生き様

 向かうは黒谷金戒光明寺。
揃いの紋付を着て、一里十六町(約5km)ほどの距離を歩いて行く。

 金戒光明寺は、徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。
会津藩主松平容保が文久二年(1862年)閏八月一日に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵千人が京都に常駐している。

提出した嘆願書は受理されて、三月十五日に正式に会津藩御預りとなった。

「これでようやく道が拓けた」

「誰よりも先に駆け抜けてやろうぜ、勝っちゃん!」

歳三と勇は嬉しそうに抱きしめあった。

「全くお前さんは、土方と呼べと言っていたのに、興奮すると“勝っちゃん”なんて古いアダ名で呼びやがって」

歳三は頬を赤らめたが、そんな事よりも会津藩御預りになれた事の方が嬉しく、今まで暗闇の中をもがき続けてきた甲斐があった。と素直に喜んだのだ。

「こうなれたのも清河さんのお陰だ」

「あぁ」

色々あったが、清河がいなければ浪士組改め、壬生浪士組が相成る事はなかった。

 三日前の三月十二日に清河八郎は京を立ち江戸に向かった。
佐々木只三郎や鵜殿鳩翁も清河を見張る為に取締役として東下したのである。

壬生浪士組誕生の瞬間だ。

しかし殿内は壬生浪士組という名前が気に入らないらしい。

「なんだか情けないなァ。
もっと格好いい名前は無えのかよ」

この男、意見はするが自分では何も言わない都合のいい男だ。

しかしこの日ばかりは違った。
正式に会津藩御預りともなれば、後世に名が残るかもしれない。
ならば名付け親にでもなりたいのか、殿内は鉄扇を下唇に当てて、んーっと声を出しながら名前を考えているのだ。

「幕府への誠の忠義を尽くす我々の心情にぴったりな〝誠忠浪士組(せいちゅうろうしぐみ)〟という名はいかがだろうか」

壬生浪士組と誠忠浪士組。
歳三はくだらなそうに鼻で嗤った。

「名前なんてどうでもいいじゃねえか。
壬生浪士組だとしても、使っていけば馴染んでいくものだ」

「ト…土方くんの言う通り。
私は壬生浪士組でかまいませんが」

勇はトシと呼びそうになったが、すぐに土方と言い直して言った。
京の町では、すでに壬生浪(みぶろ)と言われている。
分かりやすいほうが良かった。

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