鬼の生き様


しかし殿内はひかずに「精忠浪士組」の一点張りである。

「精忠浪士組なんて、寄生虫みたいで格好悪いじゃないですか」

総司はくすりと笑いながら言うと、左之助はゲラゲラと腹を抱えて笑った。

「たしか寺田屋の一件で薩摩藩同士の斬り合いになったのは、精忠組だか忠誠組とかって名前じゃありませんでしたか?」

山南はそう言った。

 寺田屋の一件とは薩摩藩の勤皇派を追放したと言われる事件で、文久二年(1862年)四月二十三日に薩摩藩藩主の島津忠義(しまづただよし)の父、久光(ひさみつ)が、千人の兵を率いて京都へ行く事によって、伏見にある旅籠の寺田屋で起こった事件の事だ。

久光が上京する際に、薩摩藩の勤皇派が同行し、各藩の尊攘激派も幕府を倒す計画を実行しようと、寺田屋に集まっていたのである。

久光はその襲撃の計画を中止させようとし、藩から命令を出してもらうが、拒否されてしまい藩士同士の斬り合いになったのである。

 目的は幕府を倒すために、政治を執り行っている関白の九条尚忠(くじょうひさただ)と、京都の治安維持を行っている京都所司代・酒井忠義 (さかいただあき)の屋敷を襲撃して、安政六年(1859年)に起きた安政の大獄以降、幽閉されている尊融法親王(そんゆうほうしんのう)を助け出す計画であったが、結果、六人が亡くなり二人が重傷を負った。

後日重傷を負った二人は、藩の命令に逆らったとして切腹となり、投降した藩士は各藩に引き渡され、引渡し先のない浪人を薩摩藩が引き取ったが、船に連れ込み船内で殺され、海に投げられたという。

薩摩藩は、乱闘によって破壊された家の修復と迷惑料の他に、藩同士の斬り合いについての口止め料として、多額のお金を寺田屋に渡したのだ。

「昨年、そのようなことが起きたのに、酷似している精忠浪士組と名付けるのはいかがだろうか…」

山南はそう言うが、殿内は我を通すように立ち上がり、


「俺は精忠という言葉が好きなのだ。
では俺は精忠浪士組と名乗らせていただく」

と、苛立ちを見せたように足音を大きく立てて自室へと戻って行った。

「なぁ、近藤さんや」


芹沢が殿内が居なくなったのを確認して低声(こごえ)で勇に声を出した。


「あいつ目障りだな」

またか、勇はそう思った。
殿内義雄を斬る、そう芹沢は言いたいのである。

「お言葉ですが芹沢さん。
殿内さんは京都残留以来の同志、私は斬ることなど出来ません」

無駄な血を流すよりも、一家国家の為に剣を振るいたい。
勇は血生臭い事を嫌っている。
芹沢は、やれやれそうか、とため息をつき、この日も新見達を引き連れて呑みに出掛けていった。

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