月と握手を
「おはよう、柘季ちゃん」
耳元で羽根のような柔らかい声がする。昨日までは、聞こえることのなかった声だ。
病室にいる誰もが眠そうに目をこすっているのに、私だけは、妙に爽やかな気分で体を起こす。こんなに清々しい朝を迎えたことは、今までなかった。
「おはよう。あんたってお腹空くの?」
「食べなくても生きていけるけど、食べたい時もあるって感じ」
「よく分かんないなぁ……とりあえず、朝ご飯取りに行ってくるね」
いつもは看護師が配膳してくれるまでベッドでぼーっとしているのに、どういうわけか、今日は自ら行ってみようと思えた。職員たちはもちろん驚いている。だけど、その驚きの中には、微かな喜びの色が隠れていた。人は、いつもとほんのちょっと違うことが起こっただけで、反応が変わる生き物なのだ。
病室に戻ると、ハルは勝手に人の本棚を漁っていた。確かに私は何も言わなかったけど、最低限の常識じゃないかな。人の物を勝手に触らないって。
時々「あっ、これ知ってる!」「柘季ちゃんってこんな趣味が……」と呟いていて、何やら楽しそうなハル。何か、三歳児みたいだな。そう思うと、怒りたい気持ちも静まっていく。
「あんた、何やってるの?」
「あ、お帰り! 柘季ちゃんって文学少女でもあったんだね」
「そういうわけじゃないけど、読書は昔から好きなんだよね。絵を描くことの次くらいに」
「へぇー……夏目漱石の『こころ』を持ってる十九歳もなかなかいないよね。かと思えば、年相応によしもとばななとかも読んでるんだ」
「人の趣味にあれこれ口出さないで」
小声で呟いて、溜め息をつく。ベッドに備え付けられた細長いテーブルにトレーを乗せて、布団へ上がる。今日のメニューは嫌いじゃない。むしろ、デザートのいちごヨーグルトに笑みを向けてしまったくらいだ。
ふと、ハルの目が一点に注がれていることに気付いた。棚から引き抜かれた書籍自体は、そんなに珍しいものじゃない。彼女の視線を独り占めしているその本には、私が尊敬する美鈴先生がデザインしたブックカバーがかかっている。つまりハルは、本の中身どうこうではなく、カバーの絵に目を留めたということだ。
白銀の布地に舞う、今にも掴めそうなほどリアルな綿雪。そして、右隅では少女が一人、ぽつんと座って雪だるまを作っている。『銀世界の少女』という名の作品だ。
「それ、『青の炎』だよ。読む?」
映画にもなった、貴志祐介さんの代表作。私は十六の時に出会い、その切なさ故に好きになった。自分より一つ上の少年が母と妹を守るために完全犯罪を計画するという内容は、世間にも、同世代の私にも衝撃的だった。特に好きな場面はと聞かれたら、私はあれを選ぶ。少年が自転車に跨り、悲しい運命に向かって一気に急降下していくラストシーンを。
「柘季ちゃん、このカバーって」
「美鈴先生がデザインしたものだけど」
そう答えると、ハルは「やっぱり」と呟いた。何が、と聞き返そうとしたその時、彼女は信じられない一言を口にした。
「この女の子、柘季ちゃんだね」
耳元で羽根のような柔らかい声がする。昨日までは、聞こえることのなかった声だ。
病室にいる誰もが眠そうに目をこすっているのに、私だけは、妙に爽やかな気分で体を起こす。こんなに清々しい朝を迎えたことは、今までなかった。
「おはよう。あんたってお腹空くの?」
「食べなくても生きていけるけど、食べたい時もあるって感じ」
「よく分かんないなぁ……とりあえず、朝ご飯取りに行ってくるね」
いつもは看護師が配膳してくれるまでベッドでぼーっとしているのに、どういうわけか、今日は自ら行ってみようと思えた。職員たちはもちろん驚いている。だけど、その驚きの中には、微かな喜びの色が隠れていた。人は、いつもとほんのちょっと違うことが起こっただけで、反応が変わる生き物なのだ。
病室に戻ると、ハルは勝手に人の本棚を漁っていた。確かに私は何も言わなかったけど、最低限の常識じゃないかな。人の物を勝手に触らないって。
時々「あっ、これ知ってる!」「柘季ちゃんってこんな趣味が……」と呟いていて、何やら楽しそうなハル。何か、三歳児みたいだな。そう思うと、怒りたい気持ちも静まっていく。
「あんた、何やってるの?」
「あ、お帰り! 柘季ちゃんって文学少女でもあったんだね」
「そういうわけじゃないけど、読書は昔から好きなんだよね。絵を描くことの次くらいに」
「へぇー……夏目漱石の『こころ』を持ってる十九歳もなかなかいないよね。かと思えば、年相応によしもとばななとかも読んでるんだ」
「人の趣味にあれこれ口出さないで」
小声で呟いて、溜め息をつく。ベッドに備え付けられた細長いテーブルにトレーを乗せて、布団へ上がる。今日のメニューは嫌いじゃない。むしろ、デザートのいちごヨーグルトに笑みを向けてしまったくらいだ。
ふと、ハルの目が一点に注がれていることに気付いた。棚から引き抜かれた書籍自体は、そんなに珍しいものじゃない。彼女の視線を独り占めしているその本には、私が尊敬する美鈴先生がデザインしたブックカバーがかかっている。つまりハルは、本の中身どうこうではなく、カバーの絵に目を留めたということだ。
白銀の布地に舞う、今にも掴めそうなほどリアルな綿雪。そして、右隅では少女が一人、ぽつんと座って雪だるまを作っている。『銀世界の少女』という名の作品だ。
「それ、『青の炎』だよ。読む?」
映画にもなった、貴志祐介さんの代表作。私は十六の時に出会い、その切なさ故に好きになった。自分より一つ上の少年が母と妹を守るために完全犯罪を計画するという内容は、世間にも、同世代の私にも衝撃的だった。特に好きな場面はと聞かれたら、私はあれを選ぶ。少年が自転車に跨り、悲しい運命に向かって一気に急降下していくラストシーンを。
「柘季ちゃん、このカバーって」
「美鈴先生がデザインしたものだけど」
そう答えると、ハルは「やっぱり」と呟いた。何が、と聞き返そうとしたその時、彼女は信じられない一言を口にした。
「この女の子、柘季ちゃんだね」