月と握手を
「……え、何言ってるの?」

「よく見ると似てるよ。絵ではかなり幼くしてあるみたいだけどね」



 そんなはずはない。これは、先生が亡くなる数ヶ月前に描いた作品だ。愛する女性を描いたものが遺作だと言われているから、私が先生にいただいたこのブックカバーは準遺作ということになるはずだ。

 私をイメージしてくれたのなら、とても嬉しい。そういえば、先生は「このカバーは世界に一つだけなんだよ」と言っていた。原画があれだけ美術館で重宝されているのに、何で私にだけ……私の疑問を察したのか、ハルは柔らかな笑みを浮かべて問いかける。



「ねぇ、柘季ちゃん。このブックカバーもらったの、いつ?」

「私の誕生日。わざわざ家まで届けてくれ……あっ!」



 十歳くらいの時、美鈴先生を訪問した日に大雪が降っていて、庭で雪だるまを作ったことがあった。だけどまさか、自分がこのブックカバーのモデルになっているなんて。ハルにそのことを指摘されて、私は先生が亡くなって少し経った頃に、彼の一番弟子だった人がお見舞いに来てくれたことを思い出した。

 先生よりもかなり年上で、定年退職してから絵を始めたのだと聞いている。当時三十代くらいだった先生は、何十人もの老若男女に絵を教えていたのだ。



「私たちもびっくりしてるんですよ。だって先生、本当に亡くなる直前まで絵を描いてらしたんですから……」



 見せてもらった絵には、透き通るような雪肌の美しい女性が描かれていた。背景は褪せた茶色い棚のような色をしているのに、タイトルは『桜の君』なんだとか。枯れたと思っていた木に花が咲くように、殺風景な部屋でも、綺麗な人が来るだけで見違えるものだ。先生は結婚されていなかったはずだけど、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。だったら、どうしてこんなに早く。そう思ったのは、弟子たちも同じだったみたいだ。

 私に見せるために、わざわざ先生のアトリエから持ってきてくれたのだろう。その絵をふんわり抱え直し、お弟子さんは「明日になったら、どっかからひょっこり現れるんじゃないかって思っちゃいますね」と言って、小さく笑った。まだ涙を流せるほど、感情が追い付いていなかったと思う。「そうですね」と返事をするのが精一杯だった私に、男の人はそっと語りかけてきた。



「先生は羽賀宮さんのことを、いつか共同の展覧会を開くんだ、羨ましいだろうって、私たちに自慢していました。先生は、頼まれた時以外は、特定の方をイメージした絵を描かれないお方です。今回のことは、本当に残念でした。でも、どうか悲しまないでほしいんです。先生はあなたのことを、本当の娘のように思っておいででした」



 先生が私のことを娘同然に思ってくれていたというなら、『小さい頃から見守ってきた』という意味を込めて、きっと幼い私をイメージしたんだ。娘を置いて死に逝く父親の気持ちは分からない。だけど、無性に悲しくなった。置いていかれる方は、こんなにもつらいんだ、と。

 気付いたら、瞳から生温かい水がこぼれ落ちていた。先生は私のことを、最後までちゃんと見てくれていた。周りの人たちみたいに、ガキのくせに高い所に位置付けられてるからって媚びるわけでも、自分にないものを持ってるからって妬むわけでもない。羽賀宮柘季という、ただの一個体として。私は、そんな先生のことが大好きだった。生まれ変わったらこの人みたいになりたいと願うほどに、才能や生き様の全てに憧れて、嫉妬していた。

 泣いたのは、もう何年ぶりになるんだろう。先生がいなくなったと聞かされた日でさえ涙を流さなかった薄情な私も、まだ泣くことができたなんて。いつの間にか頬を伝っていた水滴に、実は、内心とても驚いていた。こんな所をあいつが見たら、大騒ぎして大変なことになりそうだ。



「わんわん泣かないところが柘季ちゃんらしいよね」

「……あんたは私の何を知ってるの」

「調査書で見た情報しか知らないよ。だから、ね」



 母親が子供に言い聞かせるような穏やかな口振りで、私に何か言おうとしている。病室には朝食のトレーを抱えた他の患者達が続々と戻ってきていて、慌てて涙を拭う。ハルに続きを促すように視線を向けた。彼女の桜のような唇が、ゆっくりと開かれていく。



「我慢強い子だなぁって思ったんだ。つらいことがあっても、絶対に泣かないんだよね。泣かないことが強いってことじゃないのかもしれないけど、柘季ちゃんは、今まで沢山頑張ってきたんだね」
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