月と握手を
 きっと、私が何よりも欲しがっていた言葉だ。完走直後のマラソンランナーがもらう『お疲れ様』に等しいものだと思う。引っ込めたはずの涙がまたしても溢れ出て、対処に困る。

 本当は、私はハルが言うように健気な人間じゃない。先生の死を、つまらない意地とプライドを盾にしていつまでも受け入れようとしなかった、ただの愚かな子供だ。

 私はとても疲れていて、同時にがっかりしていたんだと思う。黒いペンキを被った心を理解してくれない同級生たちと、容易く哀色に染まってしまった自分の不甲斐なさに。



「……私、自分のことを分かってもらえなくてイライラしてたみたい。でも、あんたにそう言われたから、つっかえてたものが取れたのかも」



 そこまで言って言葉を止める。聖母のような笑みをたたえた視線に気付いたからだ。ハルは『その先』を待っているんだと思う。遠い昔に私が置いてきてしまった、一言添えるだけで誰もが温かい気持ちになれる、あの言葉を。



「……ありがとう、ハル」



 どういたしまして、と言われるのも久しぶりだ。自分が可愛いばっかりに、人に感謝することを忘れていた。涙を拭いて、食事に口を付ける。おいしいと思うのも、何だか久しいような感じがした。



「柘季ちゃんって、いちごが好きなんだよね? 今日は良かったね!」

「うん。いちごヨーグルトって滅多に出ないんだよね」



 近くの清流で採れたという川海苔が乗ったご飯の、最後の一口を飲み込んだ。温かいお茶が喉を通る。それから、ふわりとした真っ白な湖に、スプーンの槍を差す。抵抗することなく飲み込まれていく銀色。中をかき混ぜると赤い液体が現れて、ピンク色に溶け合っていく。それを掬って口に運ぶと、私はそっと目を閉じた。音楽家なら、こんな時にいいメロディーが浮かぶんだろう。

 二つの甘酸っぱさが合わさって、絶妙なハーモニーを奏でている。リンクを独り占めしているフィギュアスケーターのような、百メートル走を一着でゴールしたランナーのような心地に浸る。優越感のような、達成感のような、何か。食べ物一つでこんな心地になれる人間のことを、ハルはどんな風に思うだろうか。



「……至福だねぇ」



 愛犬に思わず向けてしまったような、そんな笑い声がする。馬鹿にしているような感じはしないから、最後の一山を口に入れる。

 甘い余韻を緩やかに消していくお茶が、喉をゆっくりと通り過ぎる。お茶がおいしいと感じる私って、やっぱり日本人なのかな。ふと、そんなことを考えてみる。



「ハル、見たい本があったら読んでもいいよ」



 不思議そうに私を見ている隣のベッドのおばあさんを視界の端に認め、小声で呟く。ハルは「はぁい」と声を弾ませ、ふわりとファッション雑誌を拐っていった。

 何かがズレてる気がするけど、空の上に住んでいる人も、現代の服装に興味があるってことなのかな。真っ白な床に音もなく雑誌を置いて、その場に座り込むハル。鼻歌を歌いながら機嫌良く、たまには「この服可愛い!」と声を上げ、その一枚一枚を堪能している。私以外の人間には、風がページをめくっているように見えるんだろう。

 文庫本に何度も歓声を上げておいて、結局ファッション雑誌を選ぶなんて。ハルって、変わってるなぁ。何だかあいつみたいだ。そう思ったら、小さく笑い声を漏らしてしまった。
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