月と握手を
夕月
 ゆっくりと変わり始めた、私の毎日。同じ病室の人達とは挨拶を交わしたり、会話を楽しめるようになってきた。だけど、長年の入院生活で染み付いてしまった私の悪い印象は、そう簡単には拭い去られないみたいだ。



「……秋山先輩、代わりに行ってくれませんか?私、109号室のあの子だけはどうしても苦手で……」

「あぁ、あの無愛想な女の子?桔季ちゃんだっけ?」

「そうです、そうです。あの羽賀宮夫妻の娘だっていう……」

「ご両親は謙虚な方々だものねぇ。まぁ、あの子も絵が描けなくなるまでは良い子だったらしいわよ。今はそんな面影ゼロだけど。」



 可哀相な子よねぇ、という看護師達のやり取りが、廊下から聞こえる。小声のつもりなんだろうけど、生憎全部筒抜けだ。

 “筆を握る希望を失った日の悲しみは分かって欲しいけど、同情めいた視線は要らない。”我儘なのかもしれないけど、そんな思いが胸の内側を駆け抜けていく。

 ――そういうことを言うんなら、私をあの日に帰してよ。無理なことだと分かっていながら心で呟いて、思わず唇を噛み締めた。 “可哀想”だなんて、思って欲しくない。ようやく絵を描くことの楽しさを思い出したのに、そんなことを言わないで欲しい。だけど、看護師達と向き合う勇気がない私は、その言葉を喉の奥へと押し戻した。

 世の中には、病室のみんなや慧亮のような人ばかりが居る訳ではない。一度偏見や負のイメージを持ってしまった人の考え方を変えるのは、容易くはないだろう。対人関係のいざこざは、あの時で懲りたからね。忘れもしない、高校に当たる桜田アートスクール時代のことだ。



『また優勝だって、羽賀宮さん。良いよね、才能ある人は。』

『練習なんてしなくても、その時の気分でちゃっちゃと描いちゃえるんだろうね。ほら、前に色彩入門の授業の後で、あの子先生に何か言ってたじゃん。あれ、清水君が言ってたんだけど、“自分はこの色の組み合わせの方が好きだ”って言ってたらしいよ。
先生は“面白い子だ”って笑ってたらしいけど、何かヤな感じだよね。』

『“玄人には凡人の感覚は理解できない”って言いたいのかもよ。ま、よく分かんないのは事実だよな。』 気まぐれで筆を握っていたなんて、とんでもない。私は一日でも描かない日があると落ち着かなくて、毎朝毎晩キャンバスに向かってたっていうのに。

 それに、配色や表現方法に対するこだわりも、日々の活動から生まれてきたもの。それをあの人達は、まるで私を“歩くナルシスト”や“インテリペインター”のように評したのだ。

 あれには、本当に参った。私の仕事場(プライベートルーム)に来たこともないクセに、勝手なこと言わないでよね。他人の良さを認めない奴と影の努力を見抜けない奴は、永遠に上達しないんだから。

 何度もそう思ったけど、慧亮に「だって桔季、俺以外に友達居ないじゃん」と言われて納得せざるを得なかった。確かに私には、彼の他に部屋を訪問してくれるような人が居なかったからだ。

 今になって考えてみて、やっと分かった気がする。私が慧亮以外に理解者は要らないと言った時、彼が「俺だけで良い訳ないでしょ?」と呆れ気味に言っていたことの意味が。「もしかして、“友達作れ”って言いたかったのかな……」



 社交的な方ではない私を心配して、慧亮は色々と世話を焼いてくれていた。デッサンの時間はいつも彼と組んでいた私に、「気分転換に他の奴とも組んでみたら?」と言ってくれたし。誰かと話している時に「桔季もおいでよ!」と言って、半ば強引に会話の中に引きずり込もうとしたこともある。面倒だ、要らぬお節介だと返していたことが慧亮の優しさを跳ね付けていたんだと、今になって気が付いた。

 ――何で、二年も三年も経ってからじゃないと気付かないのよ。唇を噛み締める私に、「桔季ちゃん、どうしたの?」と問いかけてくる声。風のようなその声は、黄金の瞳をした天使だった。



「さっきから、何ブツブツ言ってんの?」

「……あぁ、ハルか。ごめん、ちょっと存在を忘れてたわ。」

「酷い!まぁ、しょうがないっちゃしょうがないよね。あたし、ほとんど気配ないし。」



 黒紫の髪を撫でながら、ハル。彼女は、私の憂鬱の理由に勘付いているらしい。「自己嫌悪、ってやつ?」と言ってきたことから、それが分かった。



「……私、馬鹿だなぁって思って。いつも自分のことしか考えてなかったんだよね。」 人の優しさに気付かない人間が、誰かに優しくなれる筈がない。そんな簡単なことを、どうして忘れていたんだろう。看護師達に陰口を叩かれるのも、自業自得だ。

 そういえば、美鈴先生もよく言っていた。幼い頃の私を、仕事中の自分の傍らに座らせて。



『桔季ちゃん。僕はね、みんなが幸せになるような絵を描きたいんだ。
芸術家って、変わり者が多いらしくてね。桔季ちゃんにはまだ経験がないかもしれないけど、理解されないことの方が断然多いんだよ。
でも、そんな中で、僕のことを偏見なく見ようとしてくれている人達が居る。だから僕は、描き続けるんだ。その人達や、いつか僕を非難した人達が、僕の絵を見て温かい気持ちになれるようにね。』



 先生は、あからさまに感情をさらけ出すことのない人だった。大声で怒ったり笑ったりしない代わりに、静かに諭すように語る人だった。

 あの微笑みや愁いを帯びた瞳はきっと、科学的なものを超越していたからこそ表れたものだったんだ。“自分だけの絵を描くことの意味”を見つけていたから、先生の心はいつも夜の海のように穏やかで、私や他人を受け入れられたに違いない。

 ――私にとって絵を描くことって、一体何なんだろう。「……桔季ちゃんは、馬鹿じゃない。」



 不意に聞こえた、黒紫の髪をした女の声。彼女は私の視線が自分に向けられたのを見計らって、再び口を開いた。



「桔季ちゃんは、馬鹿なんかじゃないよ。だって、ちゃんと気付けたんだもん。」



 雪肌に浮かび上がるその笑顔は、初めて会った時の艶(あで)やかな印象がまるで嘘のよう。どんな願いも叶うと信じて疑わない、無垢な天使の笑顔に他ならなかった。

 ハルの言った私が“気付けたこと”は、昨夜描いた絵のタイトルと全く同じ。“見えないけれど確かに存在する気遣い”、だったのだ。



「桔季ちゃんだけじゃなくて、誰にとっても言えることだけどね。“自分は鳥かごの中に居るから、何も学べないし、何かを発見することもない”って思ってる内は、何も変わらないんだよ。」



 私より精神年齢が幼いと思っていたハルの諭すような台詞に、少なからず驚かされた。それは、小さい頃から親に色々制限されて生きてきたと思っている人間にとっては、自由への片道チケットなんだろう。 返す言葉を探している私を見て、天使はまだ続ける。黄金の瞳がまばたきする様は、自分の中の時間感覚を奪われたような心地にさせた。

 いつの間にか、私達二人以外に誰も居なくなっていた病室の中。桜色の唇が紡ぐ単語の一つ一つが、私の心の中に、ジワリジワリと染み込んでいく。



「新しいものに出会いたいなら思い切って飛び出せば良いし、それができないなら、狭い世界の中で目一杯冒険してやるの。
“今の自分にできることを全力でやる”って、案外盲点でしょ?だから、桔季ちゃんが誰かの優しさに気付いたのは凄いことなんだよ。」



 優しさは目に見えないから、感じ取るしかない。自分から壁を作っておいて他人に何かを求めるなんて、虫が良すぎる。私は自分の生きている世界を斜めから見ていて、まっすぐ見ようとはしていなかったのだ。

 ――慧亮、やっと分かったよ。誰かじゃなくて、まず“自分自身”が変わらなくちゃいけなかったんだね。

 あの時言えなかったこと、伝えに行っても良いかな。そう思い、ベッドから床へ、ゆっくりと足を下ろす。

 運動不足の重たい体で目指すのは、この廊下の向こう。受付の側にある、ミルキーピンクの公衆電話だ。
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