月と握手を
九夜月
窓を開けた時に香る桜の匂いは、日を追うごとに少しずつ強くなっていくような気がする。でもそれは、決して不快なものではない。瑞々しさと優しさを混ぜ合わせたような、温かな香りだ。
慧亮の思いつきで、今日は外に散歩へ行くことにした。婦長さんから、“最近は体調が落ち着いているから、車椅子でなら”と許可も下りたことだし。特に何をすると決めた訳じゃないけど、スケッチブックとペンケース、それから淡い水色のブランケットを羽織って、慧亮の押す車椅子に乗った。
「やっぱまだ、満開には遠いって感じだな。蕾のままの木が多いし。」
「……そうだね、まだ3月の前半だし。」
「そういえば、タイトルに3月何日って付く曲ってなかった?」
「そうだっけ?」
音楽には疎いので首を傾げると、「桔季ってほんと、絵画と本にしか興味ねぇな!」と慧亮。その言い方が少しも嫌味っぽくないのは、それ自体が彼の人柄を表しているからだろう。
花壇の側で慧亮と話していると、丁度看護師さんに車椅子を押されながらやってくる、おばあちゃんの姿が見えた。彼女がこちらに気付いて、ふわふわと手を振ってくれる。私も、そっと振り返した。「こんにちは。桔季ちゃんもお散歩だったのねぇ。」
「うん、そうなの。花、綺麗に咲いてるね。」
二つ、三つ言葉を交わして、“また部屋で”と別れた。新しい絵を描いたら、教えてあげないといけないな。
カラフルな花の絨毯は、この季節にしか見られない色で、見る者の目に訴えかけてくる。夏になれば、また違った色合いが見られるのかな。そんなことを考えている自分が居て、内心びっくりした。
「……花でも描こうかな。」
「え?」
珍しいね、そんなこと言うなんて。慧亮が小さく笑う。
確かに、そうだ。私のスタイルだと、出来上がった時に、実物とは大分異なったものになってしまう。自分のイメージを付け足したり、要らないと思ったものを省いたりしてしまうからだ。この花もきっと、重いというかおどろおどろしいというか、そんな出来になってしまうに違いないのに。
――ハルが来てから、不思議なことばかりだ。 花の絵と言えば、私にとっては、若き日の母を描いた『桜の踊り子』だけど。あの頃のような絵は、きっともう描けないだろう。真似することはできるけど、完成したものには違和感を覚えると思う。価値観というのは常に変わっていくもので、もしかしたら、それが生きていくということなのかもしれない。赤ちゃんだった頃と晩年を迎える頃の自分を比べたら、多分、世界は全然違って見えるのだろうから。
とはいえ、人間変わらず持ち続ける部分というのも、少なからず存在するわけで。たとえば、昼間よりも夜の絵を描くのが好きだということは、私の中で、昔から変わらない所の一つだった。
「柘季ちゃん。今夜は九夜(ここのや)だから、何か神秘的な絵が描けるかもしれないよ。」
「……えっ?」
「ん?柘季、どうかした?」
「……ううん、別に。もうすぐ暖かくなるし、そろそろ春らしくなってくるといいのにね。」
慧亮の返答を聞きながら、私にしか見えない天使に、視線で訴える。“あんたのせいで、変な子だと思われたらどうするの。”そうしたら、天使は「大丈夫だよ。柘季ちゃんは元々変わってるもん」と口にした。そういう問題じゃないと思うし、あんたに言われたくない。口に出そうとしたけど、ハルが話し始めたので、思い留まることにした。
“9”というのは、世界的に神秘を感じさせる数字らしい。科学や言葉では説明できないような不思議な魅力が宿っているのかもしれない、とハルは言う。確かに、九尾の狐というのが居るし、九死に一生を得る、ということわざもある。日本人にとっては、“4”や“8”だけが特別、なんてことはなかったみたいだ。 調べてみると、占いの世界でも、“9”は神秘的な数字として扱われているらしかった。運命数の観点から言うと、“目に見えないもの”というのが主題で、紫がイメージされるのだそうで。それがふさわしいと思えてくるのだから、何だか不思議なものだ。
紫といえば、この時期にお目にかかれるのは、朝焼けの空だろうか。もうその季節ではないというのなら、隣のベッドを使っている人の銀髪を美しく演出している、ウィステリアだろうけど……特にイメージも浮かばなかったんだけど、慧亮に水を汲んできてもらって、おばあちゃんの髪を彩る薄い紫色で、白い大地を塗り潰してみる。何だか、小さい子が空を描いたらこうなった、みたいな絵だな……この綺麗な空、もしくは海に、何を浮かべてみようか。しばらく悩んでいたけど、頭上から聞こえてくる声の持ち主である黒紫の髪の女のことを思い出して、鉛筆を手に取った。
――私にとって神秘的な存在といえば、一週間ほど前に現れたハルのこと。天界人と言われてもぴんと来ないけど、よく分からないものは、別にそのままで置いておいても構わない。想像するのは、人間の得意分野だろうから。
だけどハルは、確かに私の目の前に居る。それなら、彼女をそのまま、この空間に住まわせてしまおう。所詮は、ざかざかと描いただけの一発描きなんだけど。気持ちよさそうに空を泳ぐこの天使のことを、もしかしたら私は、他の誰かにも知ってもらいたかったのかもしれない。「……その女の人には、あえて色を塗らないの?」
斜め上から、男の子の掠れた声が聞こえた。小さく頷いて、今一度、自分の描いた絵を見つめてみる。
だって、ハルは透明だから。私にとっては有色だけど、他の大多数の人にとっては無色で、もしかしたら、一生出会うことのない存在なのかもしれないから。それは何だか寂しいことのような気がして、神秘的なこの夜には、神秘的な彼女を、と思ったのだ。
「……今夜は、神秘的な夜だって教えてもらったから。目には見えないものを描いてみようかなって思ったの。」
「ふーん?でも、確かに柘季って、空想で色々描くことが多いもんな。目に見えるものばかりにとらわれるのはよくないっていうし、俺もまだまだ勉強だなぁ……」
「慧亮はどう考えても写実主義だから、なかなか難しいと思うけどね。」
モデルになった人の反応はどうだろうか。そう思って、天井の辺りに目を向ける。彼女はそこから、まっすぐに私の元へ降りてきて、丁度背後から絵を覗き込むような格好で、出来立ての絵を鑑賞し始めた。
「……これ、あたし?柘季ちゃんにしては、見たまんまを描いたって感じの絵だし、何だか小さい頃に戻ったみたいなタッチだねぇ。」
ハルは、私の小さい頃を知らないだろう。そう視線で伝えてみたら、“そうでした”と言いたげな苦笑が返ってくる。いずれにしても、彼女はこの絵を気に入ってくれたようだ。だから私は、『桜の踊り子』の隣に、この絵を飾ることにした。『紫に漂う』その美しい姿が、どうか人々の心に残るようにと、そう願って。
慧亮の思いつきで、今日は外に散歩へ行くことにした。婦長さんから、“最近は体調が落ち着いているから、車椅子でなら”と許可も下りたことだし。特に何をすると決めた訳じゃないけど、スケッチブックとペンケース、それから淡い水色のブランケットを羽織って、慧亮の押す車椅子に乗った。
「やっぱまだ、満開には遠いって感じだな。蕾のままの木が多いし。」
「……そうだね、まだ3月の前半だし。」
「そういえば、タイトルに3月何日って付く曲ってなかった?」
「そうだっけ?」
音楽には疎いので首を傾げると、「桔季ってほんと、絵画と本にしか興味ねぇな!」と慧亮。その言い方が少しも嫌味っぽくないのは、それ自体が彼の人柄を表しているからだろう。
花壇の側で慧亮と話していると、丁度看護師さんに車椅子を押されながらやってくる、おばあちゃんの姿が見えた。彼女がこちらに気付いて、ふわふわと手を振ってくれる。私も、そっと振り返した。「こんにちは。桔季ちゃんもお散歩だったのねぇ。」
「うん、そうなの。花、綺麗に咲いてるね。」
二つ、三つ言葉を交わして、“また部屋で”と別れた。新しい絵を描いたら、教えてあげないといけないな。
カラフルな花の絨毯は、この季節にしか見られない色で、見る者の目に訴えかけてくる。夏になれば、また違った色合いが見られるのかな。そんなことを考えている自分が居て、内心びっくりした。
「……花でも描こうかな。」
「え?」
珍しいね、そんなこと言うなんて。慧亮が小さく笑う。
確かに、そうだ。私のスタイルだと、出来上がった時に、実物とは大分異なったものになってしまう。自分のイメージを付け足したり、要らないと思ったものを省いたりしてしまうからだ。この花もきっと、重いというかおどろおどろしいというか、そんな出来になってしまうに違いないのに。
――ハルが来てから、不思議なことばかりだ。 花の絵と言えば、私にとっては、若き日の母を描いた『桜の踊り子』だけど。あの頃のような絵は、きっともう描けないだろう。真似することはできるけど、完成したものには違和感を覚えると思う。価値観というのは常に変わっていくもので、もしかしたら、それが生きていくということなのかもしれない。赤ちゃんだった頃と晩年を迎える頃の自分を比べたら、多分、世界は全然違って見えるのだろうから。
とはいえ、人間変わらず持ち続ける部分というのも、少なからず存在するわけで。たとえば、昼間よりも夜の絵を描くのが好きだということは、私の中で、昔から変わらない所の一つだった。
「柘季ちゃん。今夜は九夜(ここのや)だから、何か神秘的な絵が描けるかもしれないよ。」
「……えっ?」
「ん?柘季、どうかした?」
「……ううん、別に。もうすぐ暖かくなるし、そろそろ春らしくなってくるといいのにね。」
慧亮の返答を聞きながら、私にしか見えない天使に、視線で訴える。“あんたのせいで、変な子だと思われたらどうするの。”そうしたら、天使は「大丈夫だよ。柘季ちゃんは元々変わってるもん」と口にした。そういう問題じゃないと思うし、あんたに言われたくない。口に出そうとしたけど、ハルが話し始めたので、思い留まることにした。
“9”というのは、世界的に神秘を感じさせる数字らしい。科学や言葉では説明できないような不思議な魅力が宿っているのかもしれない、とハルは言う。確かに、九尾の狐というのが居るし、九死に一生を得る、ということわざもある。日本人にとっては、“4”や“8”だけが特別、なんてことはなかったみたいだ。 調べてみると、占いの世界でも、“9”は神秘的な数字として扱われているらしかった。運命数の観点から言うと、“目に見えないもの”というのが主題で、紫がイメージされるのだそうで。それがふさわしいと思えてくるのだから、何だか不思議なものだ。
紫といえば、この時期にお目にかかれるのは、朝焼けの空だろうか。もうその季節ではないというのなら、隣のベッドを使っている人の銀髪を美しく演出している、ウィステリアだろうけど……特にイメージも浮かばなかったんだけど、慧亮に水を汲んできてもらって、おばあちゃんの髪を彩る薄い紫色で、白い大地を塗り潰してみる。何だか、小さい子が空を描いたらこうなった、みたいな絵だな……この綺麗な空、もしくは海に、何を浮かべてみようか。しばらく悩んでいたけど、頭上から聞こえてくる声の持ち主である黒紫の髪の女のことを思い出して、鉛筆を手に取った。
――私にとって神秘的な存在といえば、一週間ほど前に現れたハルのこと。天界人と言われてもぴんと来ないけど、よく分からないものは、別にそのままで置いておいても構わない。想像するのは、人間の得意分野だろうから。
だけどハルは、確かに私の目の前に居る。それなら、彼女をそのまま、この空間に住まわせてしまおう。所詮は、ざかざかと描いただけの一発描きなんだけど。気持ちよさそうに空を泳ぐこの天使のことを、もしかしたら私は、他の誰かにも知ってもらいたかったのかもしれない。「……その女の人には、あえて色を塗らないの?」
斜め上から、男の子の掠れた声が聞こえた。小さく頷いて、今一度、自分の描いた絵を見つめてみる。
だって、ハルは透明だから。私にとっては有色だけど、他の大多数の人にとっては無色で、もしかしたら、一生出会うことのない存在なのかもしれないから。それは何だか寂しいことのような気がして、神秘的なこの夜には、神秘的な彼女を、と思ったのだ。
「……今夜は、神秘的な夜だって教えてもらったから。目には見えないものを描いてみようかなって思ったの。」
「ふーん?でも、確かに柘季って、空想で色々描くことが多いもんな。目に見えるものばかりにとらわれるのはよくないっていうし、俺もまだまだ勉強だなぁ……」
「慧亮はどう考えても写実主義だから、なかなか難しいと思うけどね。」
モデルになった人の反応はどうだろうか。そう思って、天井の辺りに目を向ける。彼女はそこから、まっすぐに私の元へ降りてきて、丁度背後から絵を覗き込むような格好で、出来立ての絵を鑑賞し始めた。
「……これ、あたし?柘季ちゃんにしては、見たまんまを描いたって感じの絵だし、何だか小さい頃に戻ったみたいなタッチだねぇ。」
ハルは、私の小さい頃を知らないだろう。そう視線で伝えてみたら、“そうでした”と言いたげな苦笑が返ってくる。いずれにしても、彼女はこの絵を気に入ってくれたようだ。だから私は、『桜の踊り子』の隣に、この絵を飾ることにした。『紫に漂う』その美しい姿が、どうか人々の心に残るようにと、そう願って。