幾千夜、花が散るとも
 会社を辞める8月の終わり頃にはつわりも収まり、あたしは割りと軽い方だったと思う。胃がずっともたれた感じで気持ち悪いのは続いたけど、トイレにカンヅメ的なまでには悪化しなかったし。
 あたしの友達は本当に便器抱えたまま動けなかったとか、立って歩けなくて家の中を這ってたとか。・・・そんな話も聞いてたから。

 一也と千也は仕事だってあって、あたしのコトを優先させるのにも限度があるのに。自分の時間を削って、増えちゃった家事も引き受けて。疲れてる顔も見せずにあたしばっかり気遣う。
 本当に愛されてるなぁって、実感したなんてもんじゃない。この数か月で一生分もらったんじゃないかってくらいの愛情を注がれた。親なんかいなくても。

 この子にも早く分けてあげたい。こんなに優しくて強くて幸せな愛はね、世界中でここにしか無いんだからね。 




 最後の出社日は挨拶だけにして、千也に車で会社まで送ってもらった。
 上司と総務課の面々、一番お世話になったみなみ先輩に、菓子折りとありきたりだけどタオルハンカチを一人一人包んでお礼を言って回った。
 みなみ先輩から薔薇とひまわりの可愛らしい花束を手渡された時は、二人して抱き合ってちょっと泣いた。鬱陶しいトコもあったけど面倒見のいいお姉さんだった。 

「赤ちゃん生まれたら見に行くからね!」 
 
「先輩も結婚決まったら教えてください」

「絶対、可南子に続いてすぐに寿退社するんだから。見てなさいよっ?」

 先輩が胸張って言ったら、課長に「勘弁してくれよ」って失笑された。
 笑顔で見送られて、明日からはもうここには来ないんだって感傷も沸いたけど。あたしが選んだ人生だから。後悔は欠片もない、何ひとつ。


 建物の外で千也が待ってた。あたしに気付くとスマホをカーゴパンツのポケットに仕舞い込んで、やんわり笑う。

「終わったの?」

「うん。花もらった」

 見せた花束と荷物を持ってくれて、手を繋ぎコインパーキングに向かって歩き出す。

「これで今日から専業主婦だね、あたし」

 茶化して言ったら、千也がこっちを見て悪戯っぽく笑った。

「奇遇だねぇ、オレもだよ?」

「? オレもって?」

 きょとんとして。

「今度、店を移転することになったんだ。その準備で2カ月くらいかなぁ、自宅待機だってさ」
   
「そうなの?!」

「そーなの」

 目を丸くしたあたしをクスクスと笑い、千也は。

「だから新婚生活、楽しもっか」

 飛び上がりそうに嬉しいコトを、涼しげな顔でそう言った。

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