男女七人夢物語
また明日と言ったはいいが、今日はまだ帰りたくない。ただ、あの場から逃げたかっただけだ。
人のいないところがいい。静かな自分だけの場所。
唐突に、木下雪乃のことを思い出した。多分、木下雪乃はペンとノートさえあれば、その場所に行けるのだ。
なにもかもがおかしく思えた。
木下雪乃が隠そうとするはずだ。そんな場所があるなら、私だって誰にも教えない。
適当に吹奏楽部のいない空き教室を探していると、なぜか図書室にたどり着いた。
掛けられた“open”の文字を確認して中を覗くと、なぜか図書のカウンターに人がいず、貸し出し待ちの男の子がいた。
そっと開けたはずのドアの音を敏感にも聞こえたらしいその男の子がこちらを振り返る。
その男の子を私は知っていた。
「井上奏太…?」
クラスメートであり、元天才子供ピアニスト。しかし、その男の子の片腕は二度と動かない。
「………いとちゃん」
井上奏太の発したそれ。
だが、私は一瞬何を言われたか分からなかった。周りから、一葉姉さんと呼ばれるようになってもう長い。
だから、伊藤一葉の伊藤から“いとちゃん”と呼ばれるなんて考えもしなかった。
「いとちゃん?」
戸惑いながら、私は私を指差した。こっくりと頷く井上奏太。
どうやら私のことで合っているらしい。
それにしても一人になりたかったはずが、思わぬ人物が現れた。
「………それ、持とうか」
ある片腕で本を抱えるその姿に、私はとりあえず声をかける。
井上奏太なぜか眩しそうに、いや泣きそうだったのかもしれない。とにかく目を細めた井上奏太は、小さく呟いた。
「いとちゃんは、それができてしまう人だよね」
できることなら耳をふさいでしまいたかった。
小さくとも聞こえたそれに、今の私は傷ついてしまうから。