今宵、エリート将校とかりそめの契りを
呼ばれた本人だけでなく、琴も反射的にその方向に顔を向ける。
二階の客間から降りてきたのか、先ほどまで窓辺に佇んでいた忠臣が、こちらに向かって駆けてくる。


「ああ、忠臣」


軍服の埃を払いながら、ケロッとした様子で応答する総士を見て、忠臣はホッと胸を撫で下ろした。


「お怪我は……ないようですね」


そう言いながら歩を緩め、総士の前に進む。


「軍人をバカにするな。このくらいで怪我をするようなら、鍛え足りないということだ」


総士は目を伏せて言いのけ、ふうっと口をすぼめて息を吐いた。
そして、腰を抜かしたように座り込んでいる琴に、チラリと視線を向ける。


「忠臣。お前の言う通り、俺の目の届くところに留め置く必要がありそうだ。この娘」


感情のわからない涼し気な瞳に晒され、琴はビクンと身を竦ませた。


(遊郭……嫌だ、そんなところ……)


その言葉から感じる恐怖に、琴の胸はドキドキと嫌な速度で打ち鳴り始める。


一度失敗して、今の自分では、彼を殺めることが難しいと思い知った。
大人しく諦めるべきだったのだ。
彼らが予想した通り自害する決断をしていれば、家族の仇討ちもできず、その上遊女にされて生き恥を晒すことにもならずに済んだはず。


地面に着いた両手を、ギュッと握りしめた。
彼女の白魚のような細い指が、土に塗れて汚れる。
< 23 / 202 >

この作品をシェア

pagetop