今宵、エリート将校とかりそめの契りを
琴が立っているのとは逆側にあるサイドテーブルに、指南書を戻す。
総士がクスクス笑いながらそう返すと、琴が小さく息をのむ気配が感じられた。


「琴? どうし……」


その反応が不審で、総士は彼女を振り仰いだ。
そして、顔を真っ赤に染めた琴を見つけて面食らい、呼びかけたまま言葉をのむ。


「な、なんでもないです。余計なことを言って、申し訳ありません」


琴は素っ気なくそう言って顔を背けた。


「いや。構わないが……」


耳まで赤く染める琴に、総士は首を傾げる。


「琴、そういうことなら、呉服商に使いを出しておく。早速仕立てに呼んで……」

「いえ、あの……私が出かけては、いけないでしょうか」


おずおずと遠慮がちに、しかしはっきりと、琴は総士を遮った。
それを聞いて、一瞬とは言え、総士は厳しい表情をしてしまったのかもしれない。


「逃げたりしません」

「……」


慌てたように言葉を重ねる琴に、総士は黙って逡巡した。


琴の言葉を疑うわけではない。
いや、むしろその点はまったく考えなかったから、総士は無意識に彼女を信用していたと言っていい。
彼が懸念したのは、琴が訪ねたいという先が、親友の家という点だ。
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