今宵、エリート将校とかりそめの契りを
「名取中尉の指示忘れで、何人死んだと思ってるんだ。しかも中尉は自分の過誤を上官に報告せず、揉み消した。全部自分の保身の為……十分卑劣だ。故意に値すると言っていい!」


気を昂ぶらせた正一が、握った柵を揺らしてガシャンと音を立てた。
佐和子も兄の言葉を聞いて表情を険しく歪め、頷いて同意している。


「……うん。そう、だよね……」


二人から責め立てられ、琴の返事は曖昧に揺れた。
自分では出せぬ答えを求めて、聳え建つ立派な洋館を振り返る。


(正一さんの言う通りだけど……あの人はそんな酷い人じゃないって信じたいのはどうしてだろう)


琴は屋敷の三階に並ぶ窓を見つめ、キュッと唇を噛んだ。


総士への憎しみと殺意だけを胸に秘め、足を向けた陸軍パレードから、まだほんの二週間しか経っていない。
しかし琴の心の片隅には、彼への負の感情とは違う、別のなにかが芽生えている。
自分でも上手く説明できないその感情が、今、琴を迷わせるのだ。


総士を殺す絶好の機会を逸したあの夜以来、彼の方も警戒を強めたようで、同じベッドに入りながらも、琴に指一本触れなくなった。


それは、琴にとってありがたいはずなのに、ベッドに入り背を向けられると、いつもなぜだか胸がズキッと痛む。
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