やく束は守もります
王将のない対局が始まろうとして、香月はふと思う。
「ねえ、名前何ていうの?」
「梨田史彦。カズキは?」
「杉江香月」
「じゃあ、よろしくお願いします」
「あ、よろしくお願いします」
香月にとって、こんなにきちんと挨拶をして対局をしたのは初めてだった。
穏やかな第一印象と違い、将棋になると梨田は、まるで顔と指は別々のように厳しかった。
他の子がやるような、相手玉を追い続けるような将棋と違って、香月の出方を見ながら、まずは隙のない駒組みを進める。
ある程度駒組みをしてすぐに攻める香月を、元々赤いほっぺたを更に赤くして、どっしりと受け止める。
「受け将棋」という言葉さえ知らなかった香月にも、梨田の大きな身体が更にひと周りもふた周りも大きく見えた。
安易な攻めは軽くいなされるので、香月も慎重に駒を取ることから梨田に迫っていく。
最初は勢いよく指していた梨田も、腕を組み、少し首を傾けて考えこむようになってきた。
いくら駒組みを知っていても、決して使いこなせていない陣形は、兄たちとの対局で慣れていれば十分に崩せた。
ふんだんに駒を得してしまえば、あとは攻めに転じるだけ。
香月は着実に一枚一枚、梨田の守りを剥がしていく。
そして裸同然になった玉将を、典型的な頭金の形で詰ませてしまった。
ピシッ
その金を見て、梨田はほっぺただけでなく顔全体を真っ赤に染めて、まばたきひとつしない目から涙をこぼした。
「もう・・・将棋はしない。絶対」
それが、香月が見た梨田の最初の涙で、最初の投了だった。