やく束は守もります

首筋を汗が伝い落ちるのを感じて、ようやく現実に戻ってきた。
ほとんど意味をなさない換気を諦めて窓を閉じ、エアコンのスイッチを入れる。
ほんの数分の間に、全身汗でぐっしょりだった。

今は、夏だったっけ。

素直に反応する身体とは別に、心は星冴ゆる冬へと戻っていた。

あの夜、空はどこまでも果てなく暗く、逆に地上は輝くほどに明るかった。
その不思議な明るみの中で、普段から赤いほっぺたをさらに赤くして震える指で駒を掴む少年。
音も人の気配もしないあの時間は、幼かった香月には真夜中に思えたけれど、ちょうど今と同じ、夜の入り口だった。

5時を回っても明るい空を背景に、家並が黒々とした影を連ねている。
地表にはすでに夜の気配があるのに、上空はいつまでも明るい。
その空を、香月はいつまでも眺めていた。



九月。
梨田は12勝6敗の2位で、四段昇段を決めた。
同じ勝ち星の人は他に3人いたけれど、その場合は前期の成績上位者が昇段する。
前期6位という位置がギリギリ梨田を拾った形だった。


梨田は10月1日付けで正式にプロの棋士となり、当然テレビ棋戦の記録は取らなくなった。

タイトル戦や人気棋士でなければ、そうそう対局は中継されない。
梨田の姿を見ることはなくなってしまい、香月は専門誌やネットに載った新四段のインタビュー記事と、録画したテレビ棋戦を繰り返し繰り返し見続けた。

『三段リーグは思っていた以上に厳しく、年齢的にも不安があったので、昇段できてほっとしています。悪くなっても粘り強く指して、より良い将棋、より強い棋士を目指して頑張ります』


一日過ぎるごとに日脚は短くなり、王座が決まる頃にはエアコンからファンヒーターにかわった。
冷たい雨の日が増え、竜王戦も佳境を迎える。

また、冬がくる。




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