やく束は守もります
「もう少し考えてみます」
英人も迷っていたらしく、結論を保留した。
香月がほっとしかけたとき、
「ぜひ、ご検討ください。けれど、人気のシーズンなのでほとんど埋まってしまっていて。もしこの日に予約が入った場合は数ヶ月先になりますので、そこはご了承くださいませ」
ここを選んだのは消去法なのだ。
他では両親の条件に背いてしまう。
大きくもない地方都市では、それほどたくさんの選択肢などない。
迷った末に英人は、
「香月、ここでいい?」
とひどく疲れた顔で聞いてきた。
「ここでいい?」その言い方に、英人もたくさんの不満を抱えた上で妥協したのだとわかって、香月も拒否できなくなった。
「・・・・・・うん」
小木は、すでに用意してあった契約書を取り出して、たくさんの規約を要領よく説明していった。
小木の指さす文字を追いつつ、その声を聞きながらも、香月の頭には別の指と声が浮かんでいた。
ぷくぷくだったはずなのに、すんなりと伸びた指と、低く落ち着いてやわらかい声を。
ホテルが嫌だ、小木が嫌だ。
けれど。
「本日、判子はお持ちでしょうか?」
普段から判子を持ち歩く習慣などなく、英人は表情を曇らせる。
「必要ですか?」
「お持ちでないなら、拇印でも結構ですよ」
よくあることらしく、小木も慣れた様子で朱肉とウェットティッシュを差し出した。
英人が人差し指を朱肉につけて、名前の横にチョンと押す。
ウェットティッシュで指を拭いている間に、香月の前に契約書が移動された。
「杉」と書いたところで香月のペンが止まる。
この契約書だけですべての契約がなされたわけではないし、キャンセルはできる。
それでも、ここにサインしてしまえば戻ることはないだろうと思えた。
香月はペンを小木に返し、契約書を半分に折った。
「すみません。やっぱり考えさせていただきます。もし決めたら署名捺印したものを持ってきますので」
バッグに契約書をしまいながら、殊更小木を見ずに言い放つ。
「そうですか。でも、もし他の予約が入ったら数ヶ月先になり━━━━━」
「それで構いません」
香月がバッグを持って立ち上がると、英人も特に反対することなく後に続いた。
それが3週間ほど前の出来事。
それ以来、クリスマスを挟んでも英人と連絡は取っていなかった。