やく束は守もります




はあっと美優が吐き出した息は、やはり見えなかった。

「それって、もうほとんど婚約破棄だよね」

「そうだね」

「ただのマリッジブルーじゃなかったってこと?」

美優の声はわずかに責めるようだった。
暗さと湯気で、その表情は見えなかったけれど、眉さえひそめていただろう。
ここまで来て一体なにが不満なのだ、と。

「いつか後悔するかもしれないけど、それでも今、結婚したいと思えない」

ずっと何かが躊躇わせる。
香月自身でも説明できない思いを英人が理解できるわけはなく、平行線のまま連絡を断ってしまっていた。

腕を伸ばして、ふんわりと積もった雪をすくい上げる。

「『不満はない』『これでいい』って言い聞かせてきたけど、『これがいい』『こうしたい』って言葉が、どうしても出てこなかったの」

本当の望みはこれじゃないのではないか。
どこかでそういう声がする。
『これがいい』いや『これでなければならない』と、唯一のものに手を伸ばした旧友の姿が、香月の心をえぐったのも確かだった。

次に連絡をするときは、決断を伝えるときだ。
お互いにそれをわかっているから、容易に連絡することができないでいる。

お湯に沈めた雪はみるみる溶け、温度差で手のひらがヒリヒリする。
雪の下から現れたダイヤモンドは、お湯の中ですら、夜空の星を反射したように輝いている。
まるで義務感だけでつけてきたことを責めるように。

「香月って、意外と頑固だったんだね」

「意外、かな?」

「弱々しくはないけど、あんまり自分の意見を強く言わないイメージ」

「言う必要がなかっただけだよ」

特別我慢してきた自覚はなかった。
それでも確かに、昔からものわかりのいい大人しい子、という扱いだったことを思い出す。

『え!この手、受けないの?強気過ぎるよ、カズキ』

香月を「強気」と称したのは、もしかしたらあの少年だけだったのかもしれない。
そのイメージが強いから、自分は気が強いのだとずっと思っていたけれど、周囲の評価は別だったようだ。

「英人さんが嫌になったわけじゃないんだね」

頷くと、ちゃぷんと下唇がお湯についた。

「だけど、別れることになっちゃうよ?」

「わかってる」


葉を落としたイロハカエデが、濃紺の夜空に黒く枝を伸ばしている。
真っ暗だと思っていても、月明かりなのか、雪の反射なのか、空は存外明るい。

岩の上に腰掛けて、のぼせた肌を冷ましながら、香月は美優に言わなかった出来事を思い出していた。
罪というほどではないけれど、痛みを伴うほどに重い嘘を。



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