やく束は守もります
◇
はあっと美優が吐き出した息は、やはり見えなかった。
「それって、もうほとんど婚約破棄だよね」
「そうだね」
「ただのマリッジブルーじゃなかったってこと?」
美優の声はわずかに責めるようだった。
暗さと湯気で、その表情は見えなかったけれど、眉さえひそめていただろう。
ここまで来て一体なにが不満なのだ、と。
「いつか後悔するかもしれないけど、それでも今、結婚したいと思えない」
ずっと何かが躊躇わせる。
香月自身でも説明できない思いを英人が理解できるわけはなく、平行線のまま連絡を断ってしまっていた。
腕を伸ばして、ふんわりと積もった雪をすくい上げる。
「『不満はない』『これでいい』って言い聞かせてきたけど、『これがいい』『こうしたい』って言葉が、どうしても出てこなかったの」
本当の望みはこれじゃないのではないか。
どこかでそういう声がする。
『これがいい』いや『これでなければならない』と、唯一のものに手を伸ばした旧友の姿が、香月の心をえぐったのも確かだった。
次に連絡をするときは、決断を伝えるときだ。
お互いにそれをわかっているから、容易に連絡することができないでいる。
お湯に沈めた雪はみるみる溶け、温度差で手のひらがヒリヒリする。
雪の下から現れたダイヤモンドは、お湯の中ですら、夜空の星を反射したように輝いている。
まるで義務感だけでつけてきたことを責めるように。
「香月って、意外と頑固だったんだね」
「意外、かな?」
「弱々しくはないけど、あんまり自分の意見を強く言わないイメージ」
「言う必要がなかっただけだよ」
特別我慢してきた自覚はなかった。
それでも確かに、昔からものわかりのいい大人しい子、という扱いだったことを思い出す。
『え!この手、受けないの?強気過ぎるよ、カズキ』
香月を「強気」と称したのは、もしかしたらあの少年だけだったのかもしれない。
そのイメージが強いから、自分は気が強いのだとずっと思っていたけれど、周囲の評価は別だったようだ。
「英人さんが嫌になったわけじゃないんだね」
頷くと、ちゃぷんと下唇がお湯についた。
「だけど、別れることになっちゃうよ?」
「わかってる」
葉を落としたイロハカエデが、濃紺の夜空に黒く枝を伸ばしている。
真っ暗だと思っていても、月明かりなのか、雪の反射なのか、空は存外明るい。
岩の上に腰掛けて、のぼせた肌を冷ましながら、香月は美優に言わなかった出来事を思い出していた。
罪というほどではないけれど、痛みを伴うほどに重い嘘を。