やく束は守もります
英人との別れを意識したのは、式場選択より前。
『ごめんなさい!バイトの子がノロウィルスにかかっちゃって、急に出勤になった!』
そう嘘の連絡をして、約束をキャンセルしたときのことだ。
土日休みの英人と不定休の香月は休みが合いにくい。
その日は英人が代休で、休みが重なるのは一月ぶりだった。
約束までの時間、香月は洗濯物を干しながら、ふと竜王戦の中継をつけてしまった。
ところが、対局室が映し出された途端、目に飛び込んできたのは記録係だった。
なんで・・・?
チャコールグレーのスーツ姿で記録を取っていたのは、梨田だった。
記録はほとんどの場合、奨励会員が取る。
それでも近年は奨励会員の進学率が上がり、平日の対局において記録係を確保することが難しくなっている。
大事な記録を誰にでも頼めるわけがなく、将棋連盟でも色々苦労している問題だった。
プロになりたての棋士が取ることもあると知ってはいたけれど、実際目にするのは初めて。
昇段したばかりでまだ手合いのついていない梨田は、スケジュールが空いていたのだろう。
とにかく記録係は梨田で、香月はほとんど反射的に、しかもあっさりと英人との約束を捨てた。
『了解。仕事がんばって』
英人からのそのメッセージにすら気づかず、干すべき洗濯物も放り出したまま、パソコンディスプレイを凝視していた。
画面の向こうの遠い憧れを、伴侶となる人よりも優先した。
それは「好きな俳優さんのドラマ観たくて、彼とのデート、キャンセルしちゃった」とほとんど同じであるのに、重い罪悪感があって、とても他人には話せない。
同級生がプロ棋士になったのだから、話題のひとつとして会話に出してもいいはずなのに、香月は誰にも話したことがない。
かつて将棋に夢中だったことも、美優にも英人にも言っていない。
将棋のことも、梨田のことも、考えるだけで胸が締め付けられて、簡単に口に乗せることができないのだ。
秘密は積もって積もって、結晶のように今も胸にある。
くゆる硫黄の香りを吸い込んで、その結晶を奥に押し戻した。
生涯、誰にも見せないつもりで。