やく束は守もります



車の中で父は不機嫌だったが、それも気にならないくらい梨田は落ち込んでいた。

たった一度負けたくらいで夢を諦めるなんて。

一緒に棋士を目指すという夢を、香月の方から手放されたことがショックでならなかった。

「史彦」

「んー」

父の小言がくることを予想して、梨田は面倒臭い気持ちで窓の外に目をやった。

「奨励会に入るとどれくらい金がかかるか考えたことあるか?」

思いがけない質問に父の方を振り返る。

「お金、かかるの?」

「当たり前だ。慈善事業じゃあるまいし」

転校する前に通っていた水泳教室や書道教室の月謝がいくらだったのか、梨田は知らない。
考える手がかりさえないままボーッと父を見ていると、信号を見たまま嘆息される。

「入会金10万。それ以外に月1万でこれは12ヶ月分を毎年一括払いする。だけど、それよりかかるのが交通費。月2回の奨励会を往復するとして、夜行バスを使っても片道1万くらい。だから月4万。子どもひとりで行かせるわけにはいかないから、大人の分も合わせて8万。毎月、何年も、これをずっと続けるんだ。こんな言い方は失礼だけど、多分、杉江さんの家では出せない。・・・香月ちゃんには絶対言うなよ」

千円を越える棋書にも手が届かない梨田にとって、数万単位の話は手に余る。
そして、香月の家が片親であったことも、今思い出した。

「東京や大阪から離れた地域からなかなか棋士が出ないのは、こういう事情もあると思う。練習相手もいない。金もかかる。そこを突破するのは、余程の才能とそれを応援してくれる環境が必要だ」

親は口うるさいものだけど、やることなすこと否定されてきたわけではない。
実際、宿題もせずに将棋道場に通っても、食事もそこそこに詰将棋に没頭しても、両親は何も言わない。
少し会っただけでも、香月の母親が娘を思い通りに束縛しているわけでないことはわかった。
つまり、香月を取り巻く環境が難しいのだ。
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