やく束は守もります
梨田は一手ずつ指しながら、穏やかな声と表情で積極的に参加者に話しかけていた。
「よく勉強されてますね」とか「まだ今は角の打ち込みを警戒する必要はないですよ」などと、丁寧に指導している。
ある程度緩めて指しているらしく、たいていは梨田の方が投了を告げていた。
そして感想戦に入ると、戻した盤面で「ここに歩を打った方がよかったので、こっちは桂馬で受けて」などと指導し、「だけど守りを捨てて攻撃に転じたタイミングはとてもよかったです」と最後はきちんと褒めて終わらせる。
勝たせて、指導して、褒めて帰す。
それは大人であってもとても気分のいいもので、みんな笑顔で席を立っていった。
ところが、香月の盤面だけは総崩れしていた。
香月の前に立つと、梨田はスーッと空気を変える。
指導対局においてプロ棋士が考える時間は、基本的に数秒程度。
しかし香月の盤の前で、梨田は数十秒考え込むことさえある。
そうして指した手は、盤に刺さるほどに重く、そこから風が立つようにも思えた。
香月も息が苦しいほどの圧力にあらがって、必死にくらいついていた。
向かってきた手は受ける。
後ろには引かない。
自玉の守りが薄くなろうとも、チャンスがあると見れば勝負に出る。
「相変わらず気強いな」
6枚も落とすほどの弱いアマチュアに、梨田は真剣に勝とうとしている。
それはその場にいた誰もが感じていた。
一見隙がありそうに見えても、絶妙なバランスでかわされる。
何気なく指したような手が、香月の攻めの芽を摘んでいる。
目をつぶって季節を通り抜けた香月と、歯をくいしばって季節を重ねてきた梨田。
その違いが、盤上にはっきりと現れていた。