やく束は守もります
あと一手、あの歩を成られたら投了しよう。
もう手を考えることはせず、しずかに盤を見つめる香月の前で、梨田の手があやまたずに歩を裏返した。
それを香月の玉将の正面に、コツンと触れさせる。
「ひとつ、確認したいことがあるんだ」
気を遣っているのか、梨田と香月の周りには誰もいない。
みんな雑談に花を咲かせているか、自分の局面に夢中だった。
香月は梨田の手にあると金から、視線を梨田に移す。
「今日、指輪は?」
一瞬躊躇ったのちに、ふるふると首を横に振った。
それを確認して、梨田は香月のネームプレートを駒を持つ方とは反対の手で指さす。
「名前、まだ〈杉江〉さんなの?」
自嘲的な思いが口元を綻ばせた。
「その話は、キャンセルになりました」
梨田の指から、と金が盤上に滑り落ちる。
それを確認して、香月は満面の笑みをその上に落とした。
「はあー、負けました!」
次いで勢いよく頭を下げ、ふたたび見上げた梨田は、まだぼーっとしたままだった。
「香月」
名前がそっと呼び変えられたことには、当然気づかない。
「結構頑張ったんだけどなー。負けちゃった」
「駒落ち定跡、勉強してないからだよ」
「当たり前だけど、強いね、梨田先生」
「その呼び方やめて」
「6枚落ちでも完敗。もう気軽に話しかけたりできないね」
「俺はそんな立派な人間じゃない」
「だめ」
少し赤い目に力を入れて、香月はしっかりと梨田を見上げた。
「私なんて届かないくらいの、立派な棋士になって。梨田先生」