やく束は守もります



池西将棋道場のアルミ製のドアがカチャリと閉まった。
同時にコンクリートの床には透明な滴がひとつ落ちる。
バッグからティッシュを取り出す間に、その隣によく似た滴がまた落ちた。
手を動かす前にポタリ、ポタリと落ち続けるからキリがない。
ようやく取り出したティッシュで目元をせき止めて、香月は急いで出口を目指す。

軽快な引き戸を開けて外に出ると、埃っぽい強い風が髪を吹き上げ、一瞬視界が閉ざされた。
まだ高い太陽は弱った目にしみるので、アスファルトの消えかけた白線を見つめるようにして、しゃくりあげながら通りを歩く。

将棋の道を諦めてからずっと、心の奥に重苦しいものを抱えて生きてきた。

父がいなかったから。
お金がなかったから。
将棋会館が遠かったから。

たくさんの言い訳をして、才能がないことを認めて来なかった。

もし自分が男だったら、もっと将棋が強くなれたんじゃないか。
そうしたらお金のことも母のことも省みず、奨励会入りを頼んだかもしれない。
女だったから夢を諦めざるを得なかった。

梨田の将棋は、そんな負け犬の遠吠えを一掃するほどの力があった。

『相変わらず気強いな』

そうつぶやいて指した手は、息が止まるほど鋭かった。

あの夜から十数年。
叶うかどうかわからない地獄同然の夢を、一心に目指して、とうとう掴み取った人間の重みだった。

例え男に生まれていても、梨田より才能があったとしても、それだけの努力と覚悟を持てる気が、香月はしなかった。


気持ちが落ち着くまで、と歩いてみたら、いつの間にか国道に出ていた。
祖母が亡くなってからは、めっきり通ることがなくなった通りを、物珍しい気持ちで歩く。

あの頃梨田が待っていたコンビニはなくなっていて、今はまた別のコンビニになっていた。
当然、詰将棋を解きながら友達を待っている少年などおらず、数台の車があるだけ。

車移動が当たり前になってしまった香月にとって、この距離は思った以上に長く感じた。
幼い足であれば、尚更遠かったはずの道のりは、これほど永遠には感じなかったのに。


今朝のニュースによると、県内でも早いところは、桜が三分咲きだという。
しかし、川沿いの桜並木はまだ蕾を綻ばせた程度で、ほんのり紅みを帯びた枝だけが連なっている。
その枝の下を、ゆるくカーブを描いた細い道が伸びていた。

梨田が住んでいたアパートは、香月の家の方向ではなく、実はこの道の先にあったらしい。
それを知ったのは、彼が転校した翌年のことだった。






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